蒼穹へ大地の導き 1

「アーシア!」
 夢の中で少年は叫んだ。
 美しい亜麻色の髪が宙をなびいて視界から消える。
 その先にこちらに黒い武器を向ける男がいる。険しく、感情が殺された瞳が亜麻色の髪を追っているのが見えた。
 自分の口から漏れる以外は何者も音を生み出さない。この夢はいつもそうだった。
 少年は床に座りこんで、倒れた女性を抱き上げた。女性の胸は赤く滲んでいる。
「アーシア! ……どうしてっ」
 女性は涙に濡れた蒼い瞳をかすかに開き、わずかに唇を動かした。
「ごめん……、ごめんね、フレイム……」

「っ!?」
 ありえないはずだった声。フレイムははっと目を覚ました。
 心臓がどくどくと脈打っている。冷たい汗が首筋を伝って、フレイムはゆっくりと息を吐き出した。
(……声、聞いたの初めてだ……)
 声はもちろんだが、この夢自体、見るのが久しぶりだった。そう、ザックとともに旅をはじめてから久しく見ていない。
 落ち着いて視線を動かすと、まだ明けそうにない暗い空と、規則正しい呼吸を繰り返すザックの背中が見えた。
(俺……ネフェイルに会うのが、怖いんだろうか……)
 彼の瞳に浮かぶ優しい光を覚えている。だが、その瞳はあまりにも深く澄んでいて、全てを見透かしているようで怖かった。
 物思いにふけっているとザックがころんと寝返りをうった。毛布を抱きしめている。それを見て、フレイムは一人苦笑した。以前、その毛布の役目を担ったことがある。
(もう会うって決めたのに、悩むのも馬鹿みたいだよね)
 悩みのナの字も見あたらないのんきな寝顔のザックを見つめてから、フレイムはもう一度眠りにつくべく瞼を伏せた。

 ことこと揺れる。慣れない感覚にフレイムは眉を寄せた。
 馬車、と言うには及ばない。馬の引く荷台に幌(ほろ)を張っただけのものである。もちろん、御者はフレイムたちが賞金首であることは知らない。乗り心地は悪くはないが、あまり落ち着けるものでもなかった。
「ザックは平気なのかなあ……」
 ため息混じりに、そのザックを見やる。彼は闇音の膝枕で眠っていた。時折差し込む陽光が眩しいのか、片腕で顔を覆っている。
「フレイムは酔ったの?」
 荷台の端に座って、足をぶらぶらさせながらグィンが振り返る。
「うーん、そうでもないけど……」
 こうして馬車に揺られているのはザックの体調を気遣ってのことである。もちろん、ザック本人にはそんなことは言っていない。言えば余計なお世話だと彼は怒るだろう。
 ――という事だったのだが、当のザックは気持ちよさそうに寝、自分は揺られて心地悪い。
(なんていうか……、本当に余計なお世話だったかも……)
 自分の足ではありえない速さで流れていく風景を見て、フレイムはまたため息をついた。
 コウシュウの田園の広がる風景はだんだんとその様を変えてきていた。
 三百六十度ぐるりと囲んでいた地平線はもう見えない。農地は減り、人の手の入っていない林野を抜けていく。馬車の行く手には連なる山脈が顔を見せはじめていた。あまり高い山はなく、緑に覆われている。
 その山脈を越えれば、もうリルコは目の前だ。

   *     *     *

 純白のイルタシア王城は壮麗な建物として他国にも名高い。尖塔が多く、緻密な装飾の施された白壁は美しい。それは見る者に神聖ささえ感じさせ、王室の権威の象徴でもあった。
 その塔のひとつ。白い手すり。そこに置かれた、これまた白い手。だが冷たい石と違って、その手はほんのりと温かく柔らかい。
 高所の強い風が銀の巻き髪を揺らす。
「そう、リルコへ向かうのね……」
 深海の色をした瞳を遠くへ向け、神の華――パスティア王妃は一人で呟いた。
 憂いを帯びた青い瞳は、銀の睫毛をまとってどこまでも美しい。形のよい唇。王妃は自身の住む城のごとく完璧な美しさを誇る女性だった。
「今はどこまででも行くといいわ」
 頬にかかった髪を払いのけ、パスティアは目を閉じた。
「でも、犯した罪の償いはしないといけないわ」
 その時ひときわ強い風が吹いた。頬を叩く、敵意すら感じる風。パスティアはくすりと笑みを浮かべた。
「ねぇ?」

「生意気な女だな」
 手を西のほうへと向けた格好で、飛竜は舌打ちした。
 突風はちょっとした牽制のつもりだった。しかし相手は臆する様子もなく笑みを返してきたのだ。
 眉を寄せ、飛竜は赤い双眸でイルタシアの王城ホワイトパレスのある方向を睨んだ。
「……何か、切り札でも持ってるのか……?」
 王妃と一国民の接点。ないようだが、一箇所ある。
 彼の欲する青年は、王城にゆかり深い女を母に持つのだ。ただ、その女が王城にいたのは二十年以上前。王妃はまだほんの小さな皇女だったはずだ。
(それにフレイムは関係ないはず……)
 なにかがどこかで縺(もつ)れている。
 飛竜は人差し指の関節を噛んだ。分からないことがあるのは気に入らない。
 血の瞳を不穏に光らせると、彼はその場から姿を消した。

   *     *     *

「これは、何?」
 仁王立ちになった女性がびっと一枚の紙を突きつけてくる。その瞳を怒りで染めて。
「何って、……賞金首の人相書き?」
 椅子に座った男が答えて、引きつった笑みを返す。
 手に力が入って、紙がくしゃりと曲がった。描かれた賞金首の顔も歪む。まるで持っている人物の怒りに怯えているように。
(やー、でもこの顔見たら誰だって怖がるよなー)
 そう思いながら苦笑いのまま、紙を握り締めた女が叫ぶのを、男は黙って見ていた。
「もぉーっ、どういうことよー!!」
 ヒステリックな叫び声を上げ、女は人相書きを宙へ投げる。
(ま、どういうことよ、ではあるよな……)
 男はため息をついて窓の外に目をやった。彼の脇の机には別の賞金首の人相書きが置いてある。懸賞金十億とは思えない、ごく普通の少年だ。
 天気のよい初秋の午後。怒る女をからかうように、波が打ち寄せては帰っていっていく。
 はらりと、五億の賞金首の人相書きが床に落ちた。