難題相談 4

 流れで呼称が決まってしまったことに、黒刀は頭を抱えたくなったが、勝手に呼べばいいというのも本音だ。残った問題は、
「話は戻りますけど、黒刀様、沙良のこと覚えてますか?」
 これだ。
 ここまで会話が弾んだ末にこの少女を無視するのは、さすがに意固地な気がして――少なくとも自分は彼女を交えた会話に参加したつもりはないのだが――、黒刀は観念せざるを得なかった。
「覚えていない」
 ぽつりと答えると、会話の成立に玖朗と沖が嬉しそうな顔をする。癪だ。
「黒髪が肩につくくらいの綺麗な子です」
「あいにくだが」
「……そうですか」
 肩を落とす少女に黒刀は短く息をついた。
「すれ違った相手と二度と会うことがなくても、それだけのことだろう。件の男は見つからなかったと伝えてくれ」
 頑なな相手に、優は控えめに言葉を紡ぐ。
「沙良はお礼を伝えられるだけでもいいんだと思うんですけど」
 なにも沙良とて一度会ったきりの男といきなり親密になりたいとは思っていないだろう。きっかけだけでも作ってやりたいような気がした。
 しかし、黒刀は首を振る。
「礼はいらない」
 退ける声に先ほどまでの硬さがなくなっていることに気付く。優は相手の眼差しから険しさが消えているのを見た。
 天狗は言葉を探す様子で視線を泳がせる。間を置いて苦い声が漏らされた。
「嫌がらせでもしたいというのでないならば、放っておいてほしい」
 優は唇を引き結んだ。
 困らせている。
 いくらこちらが好意を向けても彼は拒絶するしかないのだ。恋慕だろうが感謝だろうが、敵意だろうが、関係ない。
 松壱が彼を人間と引き合わせるのを渋っていたことを思い出す。沖と違って、黒刀は人との触れ合いを良しとしていない。そこにあるのは感情ではなく、ひとつの掟なのだと実感する。
「……どうして、私に会ってくれたんですか?」
 思わず口をついて出た言葉に優は慌てた。だが相手はおかしな質問だとは思わなかったようだ。黒刀の表情がわずかながら和らぐ。むしろこちらが事情を察するのを待っていたかのようだ。
「理由はいくつかあるが」
 耳を撫でる低い声が心地良い。今になって、こんな声だったのかと思う。
「ひとつは、今さらだということだな」
「……ええと?」
「はじめにも言ったが、沖の正体を知っている相手に隠しだてするのも今さらだと思った。他にも俺の存在を知っている人間がいないわけではないしな」
 その筆頭は松壱だろう。優は頷いて、さらに続きを待った。
「それにお前は目がいいから、俺が人でないことを確信しているとも聞いた。そうなら、口止めをしておきたいと考えた」
 松壱はやっと黒刀が現れた理由を理解した。
「いらぬ心配だったようだな」
 得心した表情を見せた青年に黒刀が言う。松壱は頷いた。
「羽山さんは気づいたことを俺にだけ伝えた」
 優は目頭が熱くなるのを自覚した。確かに誰にも言わなかった。言ってはいけないと思ったからではない。言っても信じてもらえないと思ったからだ。信じてくれるのは、「彼ら」だけだろうと。
(……私も、なんだ)
 松壱の横顔が脳裏を過って、優は眉を歪めた。
 自分にも人より妖魔を信じている部分があるのだ。人には見えないものだから、人とは共有できない。そして、松壱もまた人に紛れた異邦の者達を見ながら生きてきた。
「いつの世でも、こちら側を覗く者は足場が危ういな」
 独り言のように零された言葉はよく分からなかった。優は声の主を見る。色の深い紫黒の瞳に何が映っているのか、窺うことはできなかった。
 黒刀に向かって沖が口を開く。
「支えたいと思ってるんだけど」
 遠慮がちに告げられた言葉に黒刀はため息をついた。
「お前がそうしたいならそうすればいい」
 繰り返す。しかし今度は、自分にはそうはできないからと言っているように聞こえた。
 微笑を浮かべる沖から顔を逸らし、黒刀は優に視線を戻す。
「お前の友には悪いが、誤魔化してくれるか」
 優はこくんと首肯した。誰も反論しない。
「分かりました」
 少女の返答に黒刀は頷く。
 松壱が疲れた筋でもほぐすように己の首を撫でながら息をついた。
「ややこしい話にならずにすんで助かった」
「僕としては物足りないけど」
 玖朗が笑いながら黒刀の肩に肘を乗せた。
「バレなきゃそれでいいっていうふうにも聞こえたけど?」
 黒刀は顔をしかめて相手の頭を押し返す。
「勝手なことを言うな。自分のことじゃないからどうでもいいんだろう」
「もちろん!」
 玖朗は語尾にハートマークでもついていそうな軽快な返事をする。黒刀はこれ見よがしに息をつき、松壱に目線で玖郎を示した。
「高嶺、こいつを使いにするのはやめてくれ」
 玖朗がどのようにして黒刀を引っ張り出したのかは分からないが、ろくでもないことがあったのだろうと松壱はあたりをつける。「理由がいくつかあった」のもそういうことだろう。
「沖の方が良かったか?」
「それもやめてくれ」
 なんでだよと不貞腐れる沖に、黒刀は煩わしそうに片手を振って返す。仲が良さそうだと優は笑みを浮かべた。
 不意に黒刀が輪から一歩下がる。
「話は済んだな」
 その言葉にはっとして、優はその背を追って声を掛けた。
「もう帰るんですか?」
 名残惜しそうな少女の声に振り返り、黒刀は思い直したように踵を返して優に近づいた。
「確かに目はいいようだが……、灯台もと暗し、か」
 そう言うと、相手の両肩をそれぞれ軽く払う。きょとんと見返す少女に、彼は少し呆れたように眉尻を下げた。
「じゃあな」
 地面を蹴る。翼でも生えているかのように宙に舞い上がると、あっという間に木立に隠れて視界から消えてしまう。
「あ、さよならって言えなかった」
 ぼんやりと見送ってしまってから、はたと気づいた。
「大丈夫だと思うよ」
 優は声を掛けてきた沖に向き直った。己の肩を撫でて問う。
「今の、なんだったんですかね」
 沖はいまさらだなあとでも言うように笑った。黒刀が最後に見せた表情に少し似ていると優は感じた。
「肩凝りのモトを払ったんだよ」
「あれ、私また何かつけてました?」
 優は自分の肩をきょろきょろと見降ろす。知覚能力に欠く松壱もまた言われて気づき、彼は黒刀が去って行った方角を振り仰いだ。
「いや、そんなたいそうなものじゃなかったけど」
 沖としては払うほどでもないと感じていたものだ。それをわざわざ払っていったのだから。
「気に入られたと思ってもいいんじゃないかな」
「えっ、どのへんで?」
 優は驚いて声を上げた。自身のことを卑下するつもりはないが、先ほどのやりとりのなかで、何か気に入られるような要素でもあっただろうか。
「そりゃあ、黒刀の頼みを聞いた形になったわけだしね」
 ああと優は納得する。ならば、気に入られたというよりは、礼代わりだったのかもしれない。それでも嫌われたわけではないだろうからよしとしよう。
「でも、沙良に対する言い訳を考えなきゃいけませんね」
「けっきょく分からなかったと言うしかないんだろうな」
 松壱の意見に頷いて、優は背伸びをした。社の下に戻ってカバンを持ち上げる。自分もそろそろ帰らねばならない。
 帰り支度をする自分を待っている三人の側に駆け寄り、改めて頭を下げる。
「今日はなんだか面倒なことにつき合わせちゃってすみませんでした」
「いや、俺は楽しかったよ」
 沖が笑みを浮かべて返す。玖朗も同様に頷いた。
「女の子の相手はいいものだよ」
 優は相好を崩す。沖は本心面倒だとは思っていなかっただろう。玖朗は楽しくないものでさえ楽しんでしまおうとする気概が窺える。
 松壱を見る。彼は腕を組んで頷いた。
「ああ、面倒だった」
 そう言うだろうと思っていた。
「だから、すみませんってば。でも、声を掛けてきたのは高嶺さんの方ですからね」
「あのときはそれこそ面倒事を避けるつもりだったんだ」
 松壱は記憶でも遡るように空を見上げた。赤く染まり始めている。
「まさかこんなことになるとは……」
 優は笑った。
「そういうこともありますよ」