難題相談 1

 高嶺神社は祈願成就のオキツネ様で有名だが、恋愛相談に関しては成就率が低いと言われている。
 それでも縋ってしまうのは乙女心か気休めか――どちらにせよ、そんなことであの長い石段を昇ってくるとは、ご苦労なことだと高嶺松壱は思う。
 この日現れた少女は紺色のブレザーに緑のネクタイ、地元の高校生だ。社の前に佇んで手を合わせる。
「オキツネ様、オキツネ様、あの人の名前だけでも知りたいのです。お願いします」
 願い事を聞きながら、オキツネ様、もとい沖はため息をついた。
 社中に潜んで願い事を聞き、成就のために行動を起こす。それが沖の基本的なスタイルだ。ただ、すべての願いに無差別に応えることはできない。道徳に悖(もと)るような願いは言うまでもなく、そもそも神でもない彼にできることは限られていた。
(恋愛相談は受け付けてないんだけどなー。まあ、名前を調べるくらいは出来なくもないけど……)
 それなら沖が出向くより、男の顔を知っていて地元民であるその少女の方が早く調べられるのではないか。
(まさか旅行先で見かけた男だなんて……言わないよね?)
 沖は首を捻って格子扉の隙間から少女の顔を覗いた。
 色白で肩にかかるほどの黒髪。身長は標準。可憐な顔立ちの可愛い子だ。
 と、そこで沖は彼女の後ろにもうひとり立っていることに気づいた。付き添いで来た友人だろう。同じ制服を身につけた、ショートヘアで快活そうな少女。
(って、優じゃん!)
 羽山優は昨年の初秋、大鬼にとり憑かれていたところを助けた少女である。その後、時おり神社に遊びに来るようになった。
 しかし、だからと言って贔屓するわけにもいかない。実際、彼女は沖がいることに気づいている様子で、じっとこちらを見ている。
「羽山さん」
 声をかけたのは松壱だった。優が振り返る。
「あ、高嶺先輩」
 愛想を浮かべた宮司は今日は洋服を着ていた。黒地に黒のアーガイル柄のシャツを着て、ブルーのジーンズを穿いた格好はそのへんの大学生に見える――事実そのとおりなのだが、優の中では白い袴姿の印象が強かった。
「いや、先輩なんて呼ばなくていいから」
 松壱はいかにも遠慮がちに手を振った。
 揺草山のある町に高校はひとつしかない。それを除く一番近い高校でも長時間電車に乗ることになる。松壱も町の高校の出身者だ。
「うちの神社に恋愛ごとは向きませんよ」
「うん、それは知ってるんですけどね」
 優は頷く。
(じゃあ、なんで来たんだ……)
 松壱はそう思ったが、口には出さなかった。
 そこでやっと願い事をしていた当の少女が振り返る。その動きに合わせてふわりと髪が揺れる様に、松壱はどことなく違和感を覚えた。
 青年を見上げてから、少女は優のほうを向いた。
「優さん、お知り合いなの?」
「ああ、うん。高嶺先輩……じゃなくて高嶺さん、うちの高校の卒業生だよ」
「そうなの」
 少女同士の会話を聞きながら、松壱は違和感の原因を悟った。
(雰囲気の違いか。これは……いわゆる『お嬢様』だ)
 「清楚」という言葉はこういう少女に使うものだろうか。白い肌に黒目がちの瞳が愛らしい。言葉遣いも丁寧で、喋るスピードも早過ぎない。しかし、どこか警戒心を感じさせる空気は近寄りがたいものがある。
「高嶺さん、この子は伊納沙良(いのうさら)。ちょっと人見知りだけど許してくださいね」
 伊納。その名は覚えがある。伯父の取引相手の一つに確かそんな名の重役がいたはずだ。
「はじめまして、伊納さん」
 松壱が営業用としては最上の笑顔で会釈をすると、沙良はぱっと頬を染め、同じように頭を下げてみせた。
(なるほど……)
 人見知りというのは本当らしい。では慣れればこの近寄りにくい雰囲気もなくなるのだろう。
「それで、相手の名前も分からないというのは本当なんですか?」
「そうです」
「それならなおさら……」
 うちには向かないと言いかけた松壱を、優が制す。首を傾げる沙良に聞こえないように、優は松壱の耳元で囁いた。
「人間じゃないんですよ」
「……え」
 少女の言葉に松壱は目を見開く。
「沙良はもちろん人間だと思ってますよ。でも、私にはそうは見えなくて……」
 優はそこで言葉を切り、沙良を振り返った。
「沙良、高嶺さんにその人の容姿を教えてあげて」
「え……でも」
「いいから、いいから。この神社で見かけたんなら、高嶺さんの知り合いかもしれないでしょ?」
 困惑する友人を優が気楽に促す。迷った挙句、沙良は小さな声で語りだした。もちろん沖も聞いている。
「あの……一度きりなんですが、新年の初詣でお見かけしたんです。髪は黒くて短くて、背が高くて」
(それは沖じゃないのか?)
 普段は長い髪をしているが、人間に化けた沖の髪は短い。容姿も優しげで、温和な性格だから、少女の受けは良いだろう。
 だが、それなら優には分かるはずだ。松壱が優を見下ろすと、彼女は沖ではないということを肯定するように頷いてみせる。
「あの、それで日本人のお顔立ちなんですが、目が少し紫を帯びていて……」
「げっ」
 うっかり声を上げたのは沖だ。思わず口を手で押さえる。
 松壱は社の方を睨みつけ、それから驚いた顔をしてそちらを見ている沙良に、どうしましたかと声をかけた。
「あの、今何か……」
「何か?」
 何も聞こえなかったという様子で松壱が問う。沙良は困った様子で優を見たが、彼女も首を傾げて見せるだけだ。
 沙良はもう一度社を振り返ってから、うつむいて考え込む仕草をし、最後に首を左右に振った。
「……気のせいだったようです」
「そうですか」
 松壱と優は一様に息をつく。
「それで、その人のことが……」
 話の続きを始めたとたん、沙良はぼっと真っ赤になった。
(確かに見かけは悪くないとは思うが……)
 いかんせん幼少の頃からの付き合いである松壱には、黒刀を思い出して赤くなる思考回路が理解できない。無論、沖も同様である。
(よりによって黒刀だなんて)
 社の中で一人で青褪める。
 人間でない上に、人間嫌い。そんな黒刀に人間の女の子を紹介しようものなら、「帰れ」の一言で一蹴されるであろうことは容易に想像がつく。
「高嶺さん、知ってる人?」
 さすがに鋭い優がきらりと松壱を見やる。
「……いや……」
 珍しく言い淀む松壱を優はクロと判断したらしい。そしてこの反応はやはり、その男は人間ではない、とも。
 沙良は頼るような眼差しを宮司に向ける。松壱は条件反射で笑みを返した。彼女は少し安心したように目元を緩め、おずおずと口を開いた。
「あの……その、もう一度会えるだけでもいいんです」
 長い睫毛を伏せる。
「会えたら……」
 彼女が最後まで言い終える前に、アラーム音が鳴り響いた。沙良が慌ててポケットから携帯電話を取り出す。彼女はアラームを停止させ、画面を見た。
「あ、いけない」
「ああ、時間?」
 察して問う友人に、沙良は頷いてみせる。脇に置いていた学生鞄を持ち上げ、
「お話の途中で申し訳ございません。用事があるのでここで失礼いたします」
 松壱にぺこりと頭を下げた。
「あ、私が話を聞いとくね」
 そう申し出る友人にお願いしますと沙良は答える。優は手を振り、小走りに駆け出す沙良を見送った。