廊下の影 6

「イエッサー」
 契約者の命令を受け、玖郎は指を組んで鳴らした。
 突然現れた玄狐を、松之は興味深そうに眺める。
「玄狐は沖以外すべて滅んだと聞いていたが?」
「残念ながら、そこまでヤワな一族ではないんだよ」
「往生際の悪い血だな」
「なんとでも言うがいい。同胞亡き今、お前の下劣な言葉など僕一人が捨てればいい」
 そう言って、玖郎は両の手の平に妖力を集めた。
「松壱、鬼門を封じるだけでいいの?」
 背後の青年に問う。
 松壱は玖郎を見つめた。視線を受け、玖郎は振り返って残忍そうな笑みを浮かべて見せた。
「ドッペルゲンガーを見たらね、死ぬんだよ」
 青い双眸が月光を弾く。冷たい湖面を思わせるその光。
「このドッペルゲンガー、殺しておこうか?」
 松壱は息を呑んだ。
 沖とは違う。目の前にいるのは、狩ることを忘れていない獣だ。
「簡単に殺すのどうのと言って欲しくないな」
 松壱よりも先に松之が口を開く。
「玄狐如きが」
 玖郎は松之に視線を戻した。
 悠然と立つその人間はまるで負ける気がないらしい。
(面白い人間だ)
 それと同時に癇に障るのも事実だ。
「松壱、どうする?」
 松之の台詞には答えず、玖郎はもう一度松壱を振り返った。
 松壱は月光に溢れる双眸を玖郎に向ける。
「あいつの好きにさせるな。それだけだ」
 冷たく響く声を、玖郎は心地よいと思った。この声で「殺せ」と言われれば、必ず殺してみせるのに、そう口惜しくも感じる。
 ただ、それは沖の望むところではないだろう。
 玖郎は苦笑を浮かべて、目を閉じた。
「仰せのままに」
 答えて、松之に視線を向ける。
 闘う意志を見せてこちらを向く妖狐に、松之は笑みを深くした。それは玄狐と闘うことを喜んでいるかのような表情だった。
「燃えろ、魂魄」
 呟きとともに、松之の霊気が膨張する。
「刃よ」
 声がその霊気を固め、鋭く研ぎ上げる。松之の周りに青白い光の筋がいくつも浮かんだ。
 馬鹿な、そう玖郎は思った。背後で松壱が口を開く。
「あれがあいつの技だ。あいつは術式を用いずに霊力を制御する」
「……人間らしからぬ、だな」
 つまり、自分の好きな言葉で術を扱うということか。術の発動も速いだろう。
 玖郎は両手を左右に掲げ、その上に火球を作り上げた。
「さて、殺さずに、鬼門を開かせぬために、そのための体力を奪うことにしよう」

(玖郎だ)
 大気を震わすほどの妖気を感じ、沖は北東の空を見上げた。
 そしてもう一人。
「……松之」
 なぜ、と思わずにはいられない。
 十年ほど前にふらりと姿を消して以来、この街には訪れていなかったはずだ。
 青褪める沖を見上げ、優が口を開く。
「沖様?」
 名を呼ばれ、沖ははっとして少女を振り返った。
「あ、……えっと、鬼門、開くまでにもう少しかかりそうだから、今のうちに家に帰ったほうがいいよ」
「……そうですか」
「うん。洋太もね。揺草山が安全だよ」
 揺草山は神域であるし、いざという時は黒刀もいる。
 洋太はこくりと頷く。
 不安を孕んだ表情でこちらを見ている少女の頭を沖は撫でてやった。
「大丈夫だよ」
 優しく紡がれる声と温かい手に優は目を閉じた。
「はい」
 返事をして、目を開ける。
「沖様、気をつけてくださいね」
「……うん」
 沖は短く答えると、地面を蹴って駆け出した。人ではないと分かる速さで闇の中に消えていく青年を見送って、優は小さく息をついた。
(気をつけてくださいね)
 心の中でもう一度呟き、彼女は家に帰るべく足を踏み出した。

 相手の刃をかわし、玖郎はその背後に回ると地面を脚で叩いた。地の脈を松之に向ける。
「駆炎」
 炎が燃え上がって、松之を襲った。
 金の双眸はそれを見下ろし、霊力を豊富に乗せた声で応じる。
「鬱陶しい。消えろ――否、帰れ」
 ぐんっと押されるようにして、炎が玖郎の方へと向きを変えて走ってくる。
「術の途中変更なんて詐欺だなあ」
 玖郎は苦笑を浮かべ、片手で自分の放った炎を振り消した。
 二人の戦闘を見守りながら、松壱は奥歯を噛み締めた。
(術の発動直後にそれを解除し、更に別の術を発動させる。……あの短時間で……)
 松之は天才だ。
 だが、それほどの才能を持ちながらも彼は高嶺を継がなかった――継げなかった。松壱の祖父は自分の後継者に六花を選んだのだ。
「どうした、玄狐。つまらないな」
 松之は笑う。
「そんな調子では鬼門が開いてしまうぞ」
 そう言う彼の背後では、地面を走っていた青い光が細長く立ち昇っている。玖郎はそれを見つめて口を開いた。
「……なぜ、鬼門を開く必要がある?」
 よくぞ聞いてくれた、と言う顔で松之は自分の胸に手を当てた。
「お前は齢一千年を越えると見受ける。お前には分かるだろう」
 一度言葉を止め、松之は松壱を見た。顔をしかめる息子ににやりと笑う。
「俺は糸を断ち切りたいのだ」
 ――糸?
 心臓がどくんと大きく脈打った気がした。
 松壱は呆然と松之を見つめた。
「断ち切って、もう一度“奴”を殺す。二度と俺の輪廻には関わらせない」
 玖郎はなるほど、と呟いた。
「そのために鬼門を開く……というのは前準備だな。現れた鬼どもの妖気をまとめて奪う気か」
 それは人間に出来ることではない。松壱は指先が震えるのを感じた。
「いかにも」
 答えて、松之は片手を高く掲げた。その手の平には膨大な霊力が集められている。背後に浮かぶ月が歪んで見えた。
「鬼に人間を襲わせようというのではない。――まあ、そうしても構わないとは思うが――まずは力を蓄えたい。だから、邪魔をするな」
 玖郎は青い眼差しで、契約者によく似た男を見つめた。だが、契約者とはまるで違う。松壱は己の霊力を危ぶみ、恐れている感がある。一方、松之はそれを受け入れ、更に大きくしようとしているのだ。
(おもしろい親子だ。……しかし)
 玖郎は松之の霊力によって巻き起こる風に遊ばれる髪を押さえ、微笑を浮かべた。
「却下だ。お前の望むようにはさせるなと命じられた」
 松之は頬を引き攣らせて、歪んだ笑みを玖郎に向けた。
「交渉決裂か」
 そして、腕を振り下ろす。
「開け!」
 玖郎は腕組みをしてそれを眺めた。自分が動く必要はもうなかった。
「鎖結!!」
 若い玄狐の声が闇を貫いて、松之の術を刺した。