廊下の影 5

 寺社の取り壊しも工事も、何も鬼門に関連するようなことはなかったはずだ。
 それでも開くのはなぜか。そして、下級の豆腐小僧がその前兆に気づいていたのに、なぜ自分は気づかなかったのか。
 沖は不可解なことばかりの今回の事件に違和感を覚えていた。
(黒刀は気づいていた? いや、それはない。そうなら言ってくるはずだ)
 上級の妖怪だけが気づかなかったのか。それとも揺草山の妖怪だけか。
「……とにかく、ここを離れよう」
 そう結論づけて、沖は優と洋太に手を広げてみせた。
「本当に鬼門が開くなら、ここにいるのは危険だ」
 鬼門が開くのを止める術がないわけでもない。だが、大量の妖力を必要とするその術が必ず成功するとは限らない。まず、優と洋太を避難させることが先決である。
「はい」
 優は頷いて歩き出す。洋太も促すと、ついてきた。
 そして、三人が校舎を出ると同時に青白い光が地面を走った。

      *      *      *

 皿を洗い終えた玖朗は、夜風になびく髪を押さえながら、鳥居の上に立った。見下ろす街の間を縫って、青い鬼火が線上に走っている。
(おいおい、人為的に開く気か?)
 彼の目は鬼門を開こうとしている人物を簡単に見つける。
(さて、どうしようか)
 沖のことも心配だがあれも玄狐の端くれである。それよりも一人で出ていった契約者の方が気になった。
(……どうにも)
 彼は業が深い。

      *      *      *

 一筋、地面に走った光。
 それがどこを通っているのか、松壱にはすぐに分かった。
(鬼道?)
 まさか、鬼門が開くのか。
 松壱はとっさに光筋を断ち切るための霊力を地面に打ち込んだ。口早に術文を唱え、展開する。
(止められるか?)
 開く予兆はなかった。
 ならば、故意に鬼門を開こうとしている人物がいるはずだ。相手の正体が分かるなら、そこを潰せば早い。術は術者が使用するものだ。
 だが、今はそれがどこの妖怪か人間かは分からない。
(分からない以上は……、力勝負だ)
 切断の術を仕掛けたことに、相手は気づいたらしい。抵抗が腕に伝わってくる。
 松壱は更に力を込めた。
「……っ」
 ぴっと鎌鼬(かまいたち)にあったように、手の皮膚が裂ける。
 抑えようとすればするほど、反発してくる。敵は並みの力の持ち主ではない。
 その時だった。
 声が。
「邪魔をするなよ」
 背後から響いた。
 どっと冷や汗が出るのを松壱は自覚した。自分の真後ろに、鬼門を開こうとしている術者がいる。
 いや、もはや鬼門はどうでもいい。
 今の声。
 腕が震え始める。
「それ以上やると、そんなかすり傷程度じゃすまないぜ?」
 相手の警告に、松壱は唇を引き結んだ。その間にも手の傷は増えていく。
「聞き分けのない奴だな」
 近寄る足音に、眩暈すら覚える。
「やめろって言うのが分からないのか?」
 背後から腕を掴まれ、松壱の術は強制的に解除された。そのまま持ち上げるように立たせられる。
「傷なんか残らないように、遊んでやってたんだ。俺の苦労を無駄にするなよ」
 そう囁いて、相手は松壱の傷をぺろりと舐めた。あっという間に傷が癒える。
「なあ、松壱」
 支配者の声だ。
 松壱は命じられたかのように、男を振り返った。
 満月の光を背負い、薄い笑みを浮かべた男は金色の双眸を、狂喜の色で染めていた。
 こちらを振り返った青年の頬をざらりと撫でる。
「邂逅だなあ。会いたかったぜ」
 松壱よりも色の薄い髪、黒刀を超える長身――。
「離せ!」
 叫んで、松壱は相手の手を打ち払った。
 男はきょとんとして自分の手を見下ろす。松壱は構わず声を荒げた。
「どうして、ここにいるんだ!?」
 去ったはずだ。
 もう、会わないですむと思っていた。
「松之(まつゆき)!!」
 男は自分の唇を舐めた。
 腕を組んで、松壱を見つめる。自分とよく似た容貌を持つ青年。
「親父を呼び捨てにするなよ、松壱」
 まるで態度を変えない男に苛立ちさえ覚え、松壱は腕を振った。
「俺はお前を親だとは認めない!」
「なぜ? あんなに可愛がってやったのに」
「ふざけるな!」
 悲鳴と変わらぬ声で松壱は叫んだ。
「お前がしたことは……っ!」
 言葉は紡げなかった。
 金にも見える淡い茶色の双眸が、自分をぴたりと見つめている。全身が震えた。
 ――怖い。
「松壱、まつひと、待つ人……お前は俺を待っていたはずだ」
 待ってなんかいない。
「お前には俺しかいないんだ」
 違う。
 違うのに。
「松壱」
 もう記憶もあやふやな時代から、体中に刻まれてきた、恐怖。
 支配者は松之だ。
 打ちひしがれて、地面に膝をつく。

「助けてあげようか?」

 声は空から響いた。
 柔らかく弧を描いて降り立つ、一頭の獣。漆黒の姿は闇の具現のよう。
 だが、松壱はその闇を怖いと思ったことはなかった。
「玖郎……」
 ずっと憧れていた存在と同じ血に連なる男を見上げ、松壱は掠れた声でその名を呼んだ。
「どうして欲しい?」
 片膝をついて、玖郎が問うてくる。松壱は差し出された手を握った。
 ある。松之以外のものが、自分の中には存在している。
 沖も、黒刀も、ユキもいる。千里に、山背すらいる。他にも――
「玖郎、鬼門を開く術を阻止しろ」
 強い声でそう命じ、松壱は松之を見据えた。