廊下の影 4

  ――妖怪もね、人間のことが好きで悪戯とかしてくるのがいるよ。河童とか相撲が好きだしね。害がないのには豆腐小僧とか――
 沖の言葉を思い出して、優は目の前の少年を見つめた。
 一つ目なのにはさすがに驚いたが、あとは極普通の子どもだ。鉄に青を混ぜたようなくたびれた着物に、草履。手には盆にのった豆腐がある。
「豆腐小僧、くん? ねえ、何が怖いの?」
 質問を続けると、豆腐小僧はうつむいた。
「えっと、えっとね」
 上手く言葉で説明できないのか、言い淀む。
 そこへ、明るい声が響いた。
「あー! 豆腐小僧の洋太じゃん!」
 聞き覚えのあるその声に、優は振り返った。
 短い黒髪と白いパーカーは久しぶりに見る。放課後に見たときは袴姿だった。――沖だ。
「ごめん。遅くなっちゃったね」
 駆け寄ってきて、沖は優に謝った。
「いいえ」
 優は首を振りながら、椎奈が呼んできたにしては沖の到着が早すぎると思った。もともと沖はこちらに来る予定だったのだから、途中で椎奈と会ったのかもしれない。
「あの、沖様、椎奈って子と会いませんでしたか?」
「ああ、うん。神社に向かわせたよ。たぶん、今頃はマツイチが家に帰るように促してるんじゃないかな?」
「そうですか。よかった……」
 安堵の笑顔を見せる少女に、沖も笑う。
 それから彼は豆腐小僧に向き直った。
「久しぶりだねー。元気だった?」
 気さくに話しかけてくる大妖怪に、豆腐小僧――洋太はこくこくと頷く。
「お、お、お久しぶりです。元気です」
 優は背後で首を傾げる。
「お知り合いですか?」
「うん。世間は狭くなったものでね」
 答えるその言葉は、情報網、伝達手段が発達して遠い人も身近になった現代――その裏側、住処を追われて身を寄せ合うしかなくなってきた妖怪たちの社会のことを指していた。
 優は一人でうつむいた。
「そっか。洋太だったら、優が怖がらないはずだよね。悪いことをする子じゃないもん」
 納得がいった様子で沖は笑った。だが、すぐに首を捻る。
「あれ? でもなんで、洋太はこんなところにいるの?」

     *     *     *

 夜道を歩きながら、松壱は胸の奥がさざめくのを感じていた。
(嫌な感じだ)
 心中で呟く。
 霊的な感知能力の低い松壱であるが、なぜか悪いことが起こるという予感だけは――嬉しくないことに――いつも当たっていた。
 そして今、感じる気配はとてつもなく重い。
 認めたくない、と思う。
 ナイフの刃で頬を撫でられるような、ざらついた恐怖感。この気配は「奴」を髣髴とさせる。
(沖は悪い妖怪の気配はしないと言っていた……)
 ならばこれは「人」に因(よ)るものだ。
 松壱は不安を打ち消すように首を振った。
(……冗談じゃない)
 あいつはもういない。いなくなった。
 ――私をおいていってしまった。
 どれだけせいせいしたことか。
 ――まだ、終わっていないのに。
 松壱はぴたりと足を止めた。暗いアスファルトに映る自分の影を見つめる。
(……終わっていない?)
 ――終わってない。
(何が?)
 ――復讐。
 ぞっと全身が粟立つ。
「な、に?」
 誰の意識だ。
 何が、ここに、いるのだ。
 松壱は影を瞠目した。

     *     *     *

「え?」
 洋太の言葉に沖は自分の耳を疑った。
「鬼門が、開く?」
 自分の言葉を繰り返す妖狐に、洋太は必死に頷く。
「開く。危険。怖い。……出てくる」
 校舎の一角。そこを横切って、一本の道が通っている。鬼の歩く道だ。それを鬼道といい、その出口を鬼門という。
 だが、平時は現世とは完全に遮断されており、鬼がこちら側へやってくることはない。
「鬼門が開くとどうなるんですか?」
 厳しい顔つきをする沖に優が恐る恐る尋ねる。
 沖は答えるように、しかし独り言でもあるかのように口を開いた。
「鬼門が開くと鬼が出てくる。鬼は危険だから、人が近づかないように洋太が立っていたんだ……」
 洋太を見れば、人は恐れて逃げていく。つまり洋太は人が鬼門に近づかぬよう、危険標識の代わりをしていたということだ。
「いつ?」
 沖は洋太を振り返った。
「鬼門が開くのはいつ?」
 洋太はひどく言いにくそうに、か細い声で答えた。
「今夜……もうすぐ」
 沖は息を止めた。
 視線をゆっくりと、滑らせる。洋太の立つ位置を横切った鬼道――その先には何がある?
 神社や寺はなぜ、「そこ」に立つ?
「……マツイチ」
 呟いた沖の背後、暗い窓の中、皓々と輝く月が笑った。