廊下の影 3

「だめだよ」
 側までおそるおそると進んでいくと、暗闇の中に佇む人物がそう告げてきた。
 思わず立ち止まる。
「だめ? 何が?」
 優は首を傾げて尋ねた。
 聞こえた声は子どものようで、やはり恐怖は感じられなかった。
「だめだよ、怖いのが出てくるから」
 声は言う。
「……怖いの?」
 それはほんの少しだけ感じる気配のことか。
「怖いよ」
 こくんと相手が頷いたのが分かった。
(怖い気配は確かで……、でもこの子じゃない)
 弱々しく感じる恐怖感は気のせいではなかったようだ。それでもその正体は目の前の人物ではない。優はそう考えて、闇の中の子どもに近づいた。
「ねえ、あなたは誰? どうしてそんなことが分かるの?」
 相手はほんの少し戸惑った様子だった。
 今まで、怖がらずに近づいてきた人間がいなかったのだろう。
「おいら、おいらはね」
 間近までやってきた人間の少女を見上げる。
「豆腐小僧っての」
 答えた子どもは古い和服を着ていて、その手に豆腐をのせた盆を抱えていた。

      *      *      *

 椎奈は走っていた。
 東高校から高嶺神社まではそう遠くはない。広いグラウンドを抜けて、道に出たあとは住宅の光と街灯の光があって、もう怖くなかった。なにより人の気配が多いことが救いだ。
 優のことを思って走っていると、前方に人影があった。先ほどのことがあったので、思わず立ち止まる。
 近づいてくる相手が街灯に照らし出され、椎奈はほっと安堵した。人間だ。白い薄手のパーカーを着た青年。黒髪が人口光にしっとりと輝いている。
「そんなに慌ててどうしたの?」
 息を荒げている椎奈に、青年は微笑んでそう尋ねてきた。
 見ず知らずの人間に話しかけられたら、普段なら変な人だと思って無視するのだが、なんだかその青年はそんな感じがしなかった。柔らかな容貌と落ち着いた声がそう思わせるのか。
「いえ、あの、高嶺神社に急用で……」
 そう答えると、相手は目を瞬いた。
「うちに?」
 その聞き返しに、今度は椎奈が驚く。
「えっと、あの、神社の人ですか? もしかして宮司さんとか……」
 宮司と言うからもっと年配の人を想像していた。
 しかし――いや、やはり、青年は首を振った。
「俺はその従弟。宮司はマツイチっての」
「ああ、じゃあ、行かなきゃ」
 呟く椎奈に、青年は首を傾げる。
「何かあったの?」
 宮司の従弟なら何か分かるだろうか。そう思って椎奈は先ほどのことを話した。
「じゃあ、俺がとりあえず行ってみるよ。椎奈さんは念のために、マツイチに知らせて」
「は、はい」
 指示を受け、椎奈は頷いた。
 気負っている様子の少女の頭を、青年は笑って撫でた。
「大丈夫。落ち着いて」
 静かな声が心地よく響く。
 椎奈はゆっくりと呼吸をした。
「じゃあ、行っといで」
 ぽんと優しく肩を叩かれて、優のことを思い出す。
 椎奈はまた駆け出した。
 不思議なことに今まで走っていたはずなのに、足は非常に軽かった。一直線に神社を目指す。

 遠ざかっていく少女を見送り、沖は東高校の方向を振り返った。
「ちょっと遅刻しちゃったかなー」
 頭を掻く。
 ただ、あれほど霊感のある優が自ら残っても大丈夫だと判断したのだから、やはりそう悪くないものなのだろうと思う。
(まあ、のんびりしていていいわけじゃないよね)
 沖は地面を蹴って、椎奈とは逆方向に駆け出した。

      *      *      *

 珍しく夜にインターホンが鳴り、松壱は食器を洗う手を止めた。
(誰だ?)
 東條山背が夜に来たためしはないし、千里なら来る前に連絡を入れるはずだ。
 ユキがぱたぱたと玄関へ向かう足音が聞こえてくるが、気になって自分も向かう。
「あの、宮司さんに用事があって来たんです」
「えっと、ちょっと待ってくださいね」
 制服姿の少女にそう告げて、ユキが振り返ると、同時に松壱が現れる。
「あ、高嶺、お客さん」
「ああ」
 頷きながら、松壱は少女を見て双眸を細めた。
 紺のブレザーにネクタイリボン。
(東高校の生徒か……)
「俺が高嶺神社の宮司ですが、何か御用ですか?」
 営業度高めに微笑む。
 椎奈は松壱を見上げて、二、三度目を瞬いた。結局、宮司は若い人だったようだ。
「えっと、マツイチさんですか?」
「……マツヒトです。従弟に会ったんですね?」
 笑顔で訂正してくる宮司に椎奈は慌てて手を振った。
「そ、そうなんですか。ごめんなさい! えっと、はい、従弟さんに会いました」
 真っ赤になる少女に、松壱は苦笑を浮かべた。
「落ち着いてください。深呼吸をして」
「は、はい」
 椎奈は言われるまま従う。息を吐き出して、再び顔を上げた。
「あの、東高校で幽霊が出たんです。それで優が残ってて……従弟さんにそう言ったら、先に行ってるから宮司さんに知らせてって」
 松壱は目を閉じた。
(幽霊らしきものが出て、羽山さんがこの子だけをこちらに寄こした。そして途中で沖に会って、沖はそのまま高校に行った)
 与えられた情報に補正をかけ、目を開ける。
「分かりました。俺も高校のほうへ行きます」
「あ、はい。案内します」
 頷く少女に松壱は首を振った。
「結構です。OBですから。それより、早く家に帰って親御さんを安心させてください」
 そう言って、靴棚の上の時計を指す。時刻は午後九時を回っていた。もうそんな時間なのかと椎奈は驚く。家には八時頃に帰ると連絡したのだ。
「……はい、分かりました」
 椎奈の言葉を聞き、松壱は振り返った。
「玖郎」
 声を掛けると、すぐに背の高い男が顔を出す。
「何?」
「話は聞いてただろ」
 契約上、玖郎は松壱の命令を聞くことになっている。
 玖郎は面白がるような笑顔で頷いた。
「学校の幽霊って久しぶりだ」
 ついてくる気満々の妖狐に、松壱は冷たく告げた。
「皿洗っとけ」