廊下の影 1

 夜の学校は不気味だ。幾何学的な視界が闇に丸くうずもれているせいか。長く長く続く廊下は安い光で照らし出されている。
 自分の足音にさえも何か空恐ろしいものが潜んでいるようなそんな気配。
 ――だめだよ。
 背後から囁かれた気がして、思わず振り返ってしまった。

「そこにはぼんやりと白い人影がー!!」
 ぱらり、とレポート用紙が捲られる。
「……マッチ、あのね、話聞いてた?」
「ん、聞いてたけど? それでどうなったわけ? ――ここの式間違ってる」
 友人である芥千里の課題レポートをチェックしながら、松壱は顔も上げずに答える。
「え、どこ?」
「ここ。マイナスが途中から消えてる」
「あ、うそーん。解きなおしかよ――って、おい、こら。人がせっかく怖い話を披露したのに、ちょっと反応が薄すぎないか?」
 横から肘で突いてくる千里に、松壱はレポート用紙を閉じてため息をついた。
「何? 俺に悲鳴を上げろと言っているのか?」
「うん。ちょっと想像できなくて、どんな感じかなーなんて思ったのがはじまり」
 レポート用紙を受け取りながら、千里はまじめな顔で頷く。
「俺は人外のものでは驚かないと決めてるから」
 さらりと答える友人に、千里は目を細めた。
「じゃあ、何なら驚くってんだよ。そんな怖いモノなんかないような顔して」
 長い睫毛を伏せがちにして、松壱は千里を見つめて薄い笑みを浮かべた。
「人間が怖い」
 千里は息を呑んだ。脳裏を過ぎったのは、雨、濡れた髪、赤――吐き捨てられた言葉。
 唇が急速に乾くような錯覚を覚えながら、声を絞る。
「……お前、それは……ないだろう。そんなまるで……借金取りか何かに追われてるみたいじゃないか」
 松壱は千里の言葉に相好を崩した。
「借金なんかないよ。馬鹿だな」
「馬鹿って言うな」
 浮上してきた記憶を沈めながら、千里は唇を尖らせた。それから表情を変えると、にやりと口の端を持ち上げる。
「さっきの怪談さ、実話なんだぜ。取れたて新鮮、ホットな話題」
 関心を持ったのか、松壱が眉を寄せる。
「どういうことだ?」
 片目を閉じ、千里はもう一方の手の人差し指を立てた。
「東高の話さ」

      *      *      *

「ああ、東高校ね。最近、何人か幽霊を追い払ってくださいってお願いに来てるよ」
 松壱が沖に問うと、彼はあっさり頷いて見せた。そのままのんびりと茶を啜る。その反応を見て、松壱は首を傾げた。
「お前はガセだと思ってるのか?」
「最初はね。妖気もなにも感じなかったからさ」
 湯飲みを置いて沖は視線を上げた。
「でもね、今夜はとうとう動かなきゃかなーって思ってたところ」
「……まさか」
「そ、優が来たんだよ」
 羽山優。昨年の秋にも沖に頼みごとをしに来た。彼女は現在、東高校の生徒であるのだ。
「優も見たらしいよ。その白い影っての」
 他よりも霊感の強い彼女が「見た」と言うのだから、幽霊話は本当である可能性が高い。
 ただ、と沖は続ける。
「優は怖くもなんともなかったらしいよ」
 しかし友人が怖がって仕方がないので、オキツネ様にお願いに来たのだと彼女は言っていた。
 見えたが怖くなかった。それは優が初めて沖を見たときと同じで、つまり悪意のある者はそこにはいなかったということだ。
「じゃあ、害のない妖怪か何かが住み着いてるだけじゃないのか?」
「たぶんね。まあ一応見てくるよ」
 それから、沖は手を合わせてお願い事をする姿勢をとって見せた。
「というわけで、マツイチ、制服貸して」
「は?」
 にこりと微笑まれて、松壱は眉を寄せた。
「だって、学校の中まで入るのに、普通の格好じゃ怪しいでしょ。マツイチ、まだ制服持ってたよね?」
 松壱は東高校の出身で、無論、制服もまだある。
「何で俺が貸さなきゃいけないんだ。妖力でその和服を制服に見せればいいだけだろう」
「それはそうだけどー、着てみたいんだもん」
 なおも言い募る狐に松壱はお断りだと手を振った。
「なんと言われても貸さない」
「ケチー」
「ケチで結構」
 と、それっきり顔を背けられて、沖は頬を膨らませた。が、すぐに無駄だと悟ってため息をつく。
(本当に、ちょっと着てみたかったんだけどなー)
 沖の知らない松壱が来ていた服。どんな気分になるのか気になっていたのだ。
 だが、松壱が貸してくれないだろうということは予想のついていたことだ。沖は松壱を見つめて、微苦笑を浮かべた。