残片 9

 松壱が目を覚ましたときにはすでに昼食の時間を過ぎていた。眠りすぎたことは鈍い頭痛ですぐに分かる。
 手には握られていたような感触が残っていた。握っていたのが誰なのか容易に想像がつく。松壱はため息を漏らした。
「やあ、おはよう。気分はどうだい?」
 まるでタイミングを計っていたかのように玖郎が襖を開けて入ってくる。手には食事がのった盆。彼は断りもなく、枕元に腰掛けた。
「いやいや、びっくりしたよ。ユキちゃんはともかく、沖も黒刀君もまともな料理が出来ないんだな。自分が食べるものは作れるようだが、とても病人には食べさせられない」
「……俺は病人じゃないんですが」
 ベッドの上でため息をつく青年に玖郎はにこにこと笑う。
「失礼。病み上がりの間違いだな」
 なぜこんなに上機嫌なのだろうかと松壱は気味悪く玖郎を見た。沖の時もそうだが、狐の機嫌が良すぎるのは落ち着かない。
 胡乱な眼差しを向けながらも、松壱は彼の料理を受け取った。
 玖郎の作った――ここ最近松壱が口にした他人の手料理の中では最高のものだといえる――料理を食べ終えて、松壱は手を合わせた。
 ご馳走様でした、と言ってから食器を重ねる間も、玖郎は笑顔で彼を見ていた。
「美味しかった? ねえ、お礼をねだってもいいかな?」
「……」
 食べ終えてからそういうことを言うのかと、松壱は玖郎に自分と近いものを感じた。
「何が欲しいんですか?」
「君の手」
「手?」
 指差されて、自分の手を見下ろす。なんのことはない男の筋張った手だ。
 玖郎はその手をとると、そのまま口付けた。ぞっと松壱が全身の毛を逆立てる。
「な、な、何を……」
 動揺しながらも、松壱は自分の中の何かが奪われるのを感じた。体の力が抜ける。
「何をした……?」
「君の霊気を少々……僕が調理に費やした労力に相当する量をいただいた」
 玖郎はそう答えてぺろりと自分の唇を舐めた。
「ふむ。非常に美味で文句はない。これなら今後もお付き合い願いたいものだな」
「……今後も……?」
 青褪めて問う松壱に玖郎は相好を崩す。
「君が見合った霊気をくれるなら、僕は君の使いをしてもいい」
 人を化かす「狐」とは本来こういうものなのだろう。沖から得ていた見解を改めるべきかもしれないと思い、松壱は玖郎を見据えた。
 こんな雇い主を手玉に取るような使い魔など正直欲しくはない。だが、断るのもなんだか怖い気がする。笑顔はそこはかとなく威圧的だ。
 どう答えるか悩んでいたそのとき、ぱんっと襖が開かれた。
「なにそれー!?」
 外で聞き耳を立てていたのか、叫んで、沖が転がり込んでくる。
「俺だってマツイチの霊気には手をつけてないのにっ。ずるいよ、玖郎!」
「おや、沖。お前はこの子に真名を知られているんだから、首輪を付けられているも同然だろう。それで霊気をもらおうなんておこがましいことだ」
 床に転がっている子玄狐を見下ろして、玖郎は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
「これは対等な取引だ。松壱がイエスといえば契約は成る」
 そして松壱を抱き寄せて額にキスをする。ぎゃっと沖は悲鳴を上げたが、当の松壱はもはや抵抗する気にもならなかった。もとより頬や額への接吻は祖母の習慣上、慣れている。
(馬鹿馬鹿しい)
 白々とした気分で状況を認識する。
(この人は沖をからかって遊びたいんだ。それこそ『今後』ずっとだ……)
「黒刀も何か言ってよ!」
 沖が背後に向かって声を上げる。その視線の先、廊下には黒刀が立っていた。沖とは対照的に落ち着き払っている。
「俺は別に……」
 興味がない、と言う天狗に玖郎が同意を求めるように微笑む。
「黒刀君は松壱の霊気は好き?」
「……」
「美味しいよな?」
「……悪くはないな」
 笑顔の押しに負けたのか、黒刀がため息混じりに認める。ショックを受けたのは沖だった。
「なにそれ、どういうこと!? まさか、黒刀まで!?」
 ぱくぱくと口を動かす沖を見て、松壱はこれはこれで面白いかもしれないと思った。
「松壱、返答は?」
 尋ねてくる玖郎に、松壱は目を細めて優美な笑みを返した。
「いいだろう」
「マツイチ!」
 身を乗り出してくる沖を片手で押し返し、松壱は玖郎に向かう。
「ただし、俺は人使いが荒いぞ」
「妖狐も天狗も味方につけてしまっているような人間だ。無論、覚悟の上さ」
 そしてお互いに笑みを交わす。しかし双方の瞳が笑っていないのは一目瞭然である。
 何かとんでもない繋がりがここに誕生したのではないかと、沖は頬を引き攣らせた。
(きっと俺が被害を被ることになるんだ……)
 絶望的にそう悟ると、ぽんぽんと肩――否、肩には届かず二の腕を叩かれた。
 見下ろすとユキが笑っている。
「いいじゃないですか、沖様。玖郎さんの料理は美味しかったです」
「ははは……」
 乾いた笑いが漏れる。この幼い養い子はすっかり餌付けされてしまったようだ。
 彼女が松壱に心を許したきっかけも手料理だったということを思い出し、沖は頭を抱えた。そしてふと天狗が気になって振り返る。
 黒刀は笑っていた。沖が見ている事には気づいていない様子で、静かな笑みを称えている。
(ああ……そっか……)
 その見守るような視線の先。
 そこには沖も守りたいと思っているものがある。いつもどおりの高慢な笑みを浮かべた、その人がいる。
「マツイチ」
「ん?」
 呼ばれて松壱がベッドに頬杖ついて見上げている狐を見下ろす。沖はへらっと笑った。
「呼んだだけー」
 無言で一刀。笑顔をかち割る手刀が振り下ろされる。
「痛ーっ!」
「誰をおちょくってるんだ、おまえは?」
 松壱が怒気を滲ませ、指を鳴らした。ざーっと沖の顔から血の気が引く。
「おおお、おちょくってません!」
 必死に首を振る沖を見ながら、玖郎は笑った。側のユキに問う。
「いつもこんな感じ?」
 満面の笑みでユキは頷いた。
「うん、いつもこんな感じ」