残片 7

 鬼の身体に錫杖を突き立てたまま、黒刀は妖力を御する声を紡いだ。
「崩雷」
 白い光が肉を切り裂く。断末魔は雷鳴に消された。
 どんなにリアリティのある映画や本も敵わない、生々しい本物の死の匂いが鼻をつく。思わず松壱は目を閉じた。
 羅刹鬼を蒸気と化し、黒刀は錫杖を振り払った。視線を動かせば、こちらを見つめる明るい双眸とぶつかる。
「……」
 無言のまま松壱の側に膝をつく。
 黒刀はしばらくその背中の傷を眺めたあと、何事かを呟き、手の平の光で撫でた。見る間に傷が癒えていく。
「殺すとは思ってなかった?」
 自嘲を含んだ問いに松壱は黒刀の衣の袖を掴んだ。睨む。
「そんなことは言ってない」
 結界が薄れている今、異界との道を開くことは危険だ。それくらいは分かっている。
 黒刀は責務に忠実なだけなのだ。
「それに……お前が来てなかったら……」
 死んでいたのは自分だっただろう。鬼の冷たい眼差しが脳裏を過ぎった。袖を握る手が震える。
 黒刀は眉を下げて息をついた。色の白い手を握り返してやる。
「寂しくて死んでた?」
「違う! そっちじゃない!」
 噛み付かんばかりの勢いで松壱は否定する。
「分かってるよ」
 答えてから、黒刀は背筋に戦慄を覚えた。彼が振り返ると同時に、それに気づいた松壱が叫ぶ。
「起壁!」
 霊力の防御結界が飛来した氷の矢を砕く。
 細かな氷の粒が舞う中、黒刀は錫杖を掴み、素早く立ち上がった。
「また、羅刹鬼か」
 薄闇の向こう、陽光に照らし出されるのは先ほどと同じ顔。違う白い髪。
(片割れか)
 憎しみはさほど窺えなかった。鬼に兄弟愛などない。ただそこに飢え求める獣のような眼光がある。
 錫杖を向け、黒刀は重心を落として構えた。
 一瞬。
 場の空気が一転する。黒刀と羅刹鬼は総毛立つ感覚に襲われた。
「双刻の暗!」
 聞く体が震えるほどによく通る声が木々の間を貫いた。
 同時に鬼の足元が真っ黒に染まり、水面のように揺れ、また生き物の触手のように伸びて鬼を捕らえる。鬼がその闇の中に消えるのを見ると同時に、松壱の声が黒刀の耳を打った。
「沖!」
 黒刀もすぐにその影を見つけて、肩を落とした。
(結局、戻ってきたのか……)
「マツイチ!」
 黒刀には目もくれずにその横をすり抜け、沖は松壱に飛びついた。
「大丈夫? 何もされなか――っあ、背中……」
 松壱の破れた服を握り締めて、沖がぽろぽろと涙を零す。
「ごめん。俺……約束したのに……っ」
 まさか泣き出すとは思っていなかった松壱はただ唖然として、膝を濡らす滴を見ていた。
「絶対守るって……大助と約束したのに」
「……だいすけ?」
 聞き慣れない名を松壱が繰り返す。答えたのは黒刀だった。
「三代目高嶺だよ。松韻の孫で沖と実際の契約を交わした男だ」
 ため息をついて錫杖をしまう。
「霊力は松韻の孫というだけあったが、術の方はあまり褒められたものじゃなかったな」
「いいんだよ。そんなの……大助は優しかったんだから」
 ぐしぐしと涙を拭いながら、沖が言い返した。
「あれはお人好しと言うんだ」
 黒刀は呆れたようにそう零す。
 沖は黒刀を見上げて小さく笑い、松壱に手を差し伸べた。
「帰ろ」
「……ああ」
 その手は握らずに、松壱は立ち上がろうとした。
 が、ふらりと一歩傾ぐ。
「マツイチ?!」
 そのまま倒れようとするのを、沖が慌てて支える。
 腕の中の松壱は気を失っていた。冷たい汗が頬を伝う。
「血が足りないんだろ」
 黒刀はそっけなく言って、地面の血溜まりを見下ろす。先ほど触れた手も冷たかった。
「まあ、どっちにしろお前が戻ってきた以上結界も心配ないし。俺はもういいよな」
 背を向け、一人で山を登ろうと黒刀は足を踏み出した。しかし、沖が松壱を支えたまま、声を上げる。
「待って!」
「なんだよ」
 眉を寄せて振り返る黒刀に、沖は肩をすくめて笑った。
「俺じゃマツイチ運べない」

「ったく、なんで俺が……」
 ぶちぶちとごちりながら、黒刀は松壱を背負って緩やかな山道を踏みしめていく。沖はその斜め後ろを歩きながら、まあまあと言った。
「いいじゃん。そんなに疲れないだろ」
「疲れるっつーの。高嶺でかくなり過ぎなんだよ」
 昔もこうして背負ったことがあるが、その時はなんだか子犬か何かを背負っているような気分だったのを覚えている。無論いくらなんでもそんなに軽かったはずもないのだが。
「でも、マツイチの霊気は気持ちいいだろう?」
 黒刀は答えなかった。気持ちいいと表現するのはなんだか気持ち悪い気がしたのだ。
 実のところ、背中にぴたりと触れてくる「気」は清流のように澄んでいて、鬼が狙うのも無理はないと思うのだが。
「松蔵が厳しかったから、マツイチは邪心で力を使ったことがない」
 だから綺麗なんだ、となぜか沖が自慢げに話す。
(というか、力を使うことに怯えてるから……穢れるようなこともなかったんだよな)
 黒刀は心中で沖の意見に加筆をした。
「……今更だけど」
 と、ふと思ったことを口にする。
「高嶺、感知の力が低いのはまずいんじゃないのか?」
 敵が近くにいても気づけない。目で見てはじめて、相手を認識する――それでは遅いのだ。
 これだけの霊力を抱えながら、それを狙う妖怪たちを察知することが出来ないのは致命的である。
「……うん。でも生まれつきのものだし」
 沖は頷き、松壱の白い顔を見た。
「俺達がしっかりしないとね。六花とも約束したし」
(……『達』ってなんだ。俺は約束してないぞ)
 声には出さずに抗議しながら、けれど黒刀は「松壱をお願いします」と言った女性の笑顔を脳裏に描いていた。