残片 2

「沖、起きろ」
 松壱が沖の肩を揺さぶるのを見ながら、玖郎はまた首を傾げる。
「『沖』っていうのは人間からの呼び名?」
「……というと?」
 松壱が振り返ると、玖郎はあまり自信のない様子で唸った。
「うーん、確か聞いた話では僕以外の生き残りは『氷輪(ひょうりん)』て名前だったと思うんだけど」
 なるほど、と松壱は思う。
 「沖」はオキツネの「オキ」である。もとよりそれが親がくれた名だとは思っていなかった。
(氷輪、ね……)
 これで間違いがなく氷輪が沖であったならば、松壱の知る彼の名は「沖」を含め三つになる。
「おい、起きろ」
 沖はむにゃむにゃ言いながら瞼を擦った。
「んー……何?」
「お前に客だ」
 そう言って松壱は退き、玖郎に道を開けた。やあと言って玖郎は片手を上げる。
 沖はその男を見るなりぎょっとして床の上に座ったままあとずさった。
「なっ、なっ、…………お化け!!」
「妖怪が何言ってるんだ……」
 松壱が呟く。
 玖郎は苦笑して両手を広げた。
「お化けは酷いなあ。僕は玖郎」
「くろう?」
「うん、うん。君は?」
 嬉しそうに頷き、玖郎は問う。沖は戸惑った様子で松壱を見やった。
 松壱は薄い笑みを浮かべて、促すように首を傾ける。
「別に俺に遠慮することじゃないだろう。俺はお前の名前くらい知ってる」
 それは「高嶺」を継ぐ者がもうひとつ継ぐもの。
「あ……うん、そうか」
 沖は頭を掻くと玖郎のほうを向き直った。
「俺は氷輪。ここの人たちには『沖』って呼ばれてるけど」
 ぱあっと玖郎の顔に笑みが広がる。沖の手をとって身を乗り出す。
「本当に? 氷輪? 十夜(とおや)の子供の?」
 その名を聞いた瞬間、沖が青褪めるのを松壱は見た。
「……母さんを知ってるの?」
 玖郎を凝視したまま唇を震わせる。玖郎は頷いて沖に頭を下げるように身体を屈めた。
「知ってるよ。十夜は僕の……友人だ。ああ、一言謝りたかったのに……」
 うつむいて声を絞る男を沖は困惑がちに見下ろしている。松壱は玖郎が説明を始めようとするのを聞かず、袂を翻してその場を去った。
 社を離れ裏庭の方に回ろうとしたとき、背後から声がかかった。
「放っていいのか?」
 松壱は足を止め、声の主を睨んだ。受け止める紫黒の双眸は揺るがない。
「いつから見てたんだ」
「あの男が山に入ったときから。あれだけの妖が現れたら誰だって警戒するさ」
 黒刀は銀杏の木に背を預けたまま、視線を社の方に向ける。沖の前に座る、背の高い黒い獣。
「玄狐の成獣だ。あれは……危険だ」
「本物の玄狐なのか」
 呟く松壱に黒刀は冷笑を浮かべてみせる。
「俺に確かめるようじゃ『高嶺』の名が泣くだろう?」
 松壱は拳を握った。
「俺の霊的感知能力は……低い」
 吐き捨てて、松壱は自宅の方へと歩き出した。
 その後姿を眺めながら、黒刀はため息を零した。松壱の能力についてはよく知っている。
(ちょっと意地悪だったかな)
 もう一度視線を流し、沖と玖郎を眺める。二つの巨大な妖気を前に、警戒がぴりぴりと全身を覆う。
「悪いな、高嶺。俺も余裕がないみたいだ」
 玄狐は強力な妖怪だ。
 沖はまだ妖怪としては子どもだ。だが、あの男、玖郎は違う。一千歳を越えるかもしれない。そうなれば見た目は若くとももう老獪と言える。
 沖のことを知っているというだけで、善い悪いの判断は出来ないのだ。
(揺草山に害なすようなら……)
 潰さねばならない。
 それが黒刀が生まれたときから負っている役目だった。

      *      *      *

 玖郎と沖は高嶺宅に移動し、その縁側に腰掛けて話をした。
「氷輪はずっと、この家に住んでるのか?」
「ああ、うん。玄狐の里が滅ぶちょっと前から」
 沖は頷いて青空を見上げた。初代高嶺の松韻は晴れた日の眩しさと同じ笑顔を持つ人だった。
「初代高嶺に恩があって、それを返そうと思って居ついてたのが最初……」
 実際、沖が恩返しをしようと思って高嶺家を訪れたときには既に松韻はこの世にはおらず、彼らの孫が揺草山で家族と暮らしていたのだ。
 そして間もなく玄狐の里は壊滅した。
 沈んだ表情で空を見上げる沖を見、玖郎も倣って空を見上げた。
「……僕はヨーロッパにいたから。日本にもすぐに帰られなかったし……」
「そういえば、どうしてヨーロッパに?」
 不思議そうに問う沖に玖郎は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「いや、君に話すのは恥ずかしいんだけどね……。十夜にフラれて……それでちょっと……」
 玖郎はへへへと笑う。沖は目をぱちくりと瞬いた。
「母さんに、フラれたの……?」
「迦葉(かしょう)はいい男だったからなあ」
 迦葉は沖の父親である。迦葉も十夜も四百年前に一緒くたに死んでしまった。
 玖郎は肩をすくめる。
「親友だったんだ……。僕がいつまでも側でグズグズやってたら二人とも気にすると思ってさ。それで里を離れたんだよ」
 沖はうつむいて地面を見つめた。風は感じられないが、雲の影が玉砂利の上を過ぎっていく。
 玖郎は袴を握る沖の手に自分の手を重ねた。
「氷輪……、里を見に行ってみないか?」
「……里に?」
 玖郎は沖を見つめて頷いた。
「……四百年。そろそろ蹴りをつけるべきじゃないだろうか」