鬼の霍乱 6

 靴を山背の元に送ってから、沖は松壱の部屋へと足を向けた。
 部屋の前に黒刀が立っているのが目に入る。千里も一緒だ。
「何してるの?」
 沖が問うと、黒刀が振り返った。
「山背を帰したみたいだったからさ」
 なるほど妖力の気配でそれを悟ったらしい。黒刀が客間から出て行くので、千里もついてきたのだろう。
「……で? なんで二人してそこで止まってるのさ」
 中に入るか入らないのかはっきりしなよ、と沖が促す。すると黒刀が珍しく微笑んでみせた。
「入れない」
 そう言って部屋の中を指差す。沖はそれに従って中を覗いた。
 規則正しい寝息が耳に届く。
「……ああ」
 朝から止まない訪問者の相手をさせられていた松壱は、やっと眠ることが出来たらしい。
「起こすと怖いしな」
 黒刀は回れ右をする。そして自分はどうしようかと悩んでいる千里の首根っこを掴んだ。
「もうすぐ時代劇の再放送の時間だ。付き合え」
「え!? え? あの……?」
「高嶺が起きるまで暇だろうが」
「……あー……はい」
 困惑しながらも頷く千里をずるずると引っ張っていく黒刀を見送って、沖は苦笑混じりに嘆息した。
 それから松壱の方を振り返る。すやすやと眠るその寝顔を見るのは久しぶりである。
(大きくなるのが寂しいのは、やっぱり親心かな……)
 胸に濡れ渡るものを感じながら、沖は襖を閉めた。
 ふと背後でガサガサという音がする。はっと振り返ると、庭の茂みから銀の尻尾が覗いていた。
「……ユキ?」
 そういえばすっかり忘れていた。
 沖が呼びかけると、ぷはっとユキが顔を出す。頭に木の葉がたくさんついているが彼女は意に介さず、満面の笑みを浮かべた。
「沖様、ただいまです! ユキも持って来ました!」
 そう言って掲げる手には緑の葉っぱ。脇には更に大量の葉が入った籠を抱えている。
 沖は眉を下げた。彼女なりに松壱が心配だったと言うことか。
 縁側によじ登る仔狐を抱き上げて、沖は笑った。
「ありがと、ユキ。でも今日は黒刀がお薬持ってきてくれたから、ユキのは今度な」
 しかしユキは首を振る。
「沖様、違います。これ蓬(よもぎ)です。お餅にするんです」
 目をぱちくりさせる沖に、ユキは松壱の部屋の方を指差して見せた。
「高嶺は甘いのが好きだから、お餅食べたら元気になります。ご飯食べれなくても大丈夫です」
「ああ、なるほどね」
 食事を取れないと言う松壱が、草餅ならば食べれるというわけでもないだろうが、ユキはそれで大丈夫だと考えたらしい。
(まあ、起きる頃には黒刀の薬が効いてるだろうし……)
 松壱も何かしら口にすることは出来るだろう。
「よし、じゃあ、草餅作ろうか」
「はい」
 微笑む養い親にユキも頷いて笑った。

「黒刀ー、餡子とってー」
 蓬を混ぜた餅を丸めながら、沖が黒刀を呼ぶ。餡を練り終えて脇においていた黒刀はめんどくさそうに答えた。
「自分でやれ。俺はテレビを見るので忙しいんだ」
「あ、あのどうぞ」
 千里が餡の入ったボールを沖の側に運ぶと、沖は彼ににっこり笑いかけ、それから黒刀を見下ろした。
「ありがとう。芥君は優しいね。そこのバカとは大違いだ」
「……バカって誰だ」
「黒刀です」
 呻く天狗をユキが無邪気に指差す。
「チビ助、人を指差すな」
「チビじゃないです。ユキはキツ――むぐっ」
 千里の前でとんでもない事を口走ろうとする子狐の口を沖がとっさに押さえる。
「どうしたんですか?」
 首を傾げる千里に、沖は乾いた笑いを漏らした。手の中ではユキがじたじたと暴れている。
「なんでもないよ。さ、早く仕上げちゃおうか」

「まずい」
 草餅を一口かじって松壱はそう呻いた。
「わ、ひどー」
 見守っていた沖が声を上げる。彼の前には皿に盛られた草餅の山。
「美味しくないですー」
 その横で同じく草餅を口にしたユキが涙ぐんだ。
「餡に塩が足りない。餅が硬い」
 かじった草餅を呑み込んで松壱が指摘する。
 餅担当の沖と、餡担当の黒刀が互いを睨む。その横で千里がへらっと笑った。
「まー、いいじゃないか。みんなで作ったんだからさ。そう思えば美味しく感じるだろう?」
「うわーん、芥君いい人!」
 沖が千里に飛びつこうとするのを、松壱が側のファイルで叩いて制した。涙目で鼻の頭を押さえる狐をブラウンの双眸が刺す。
「馴れ馴れしい」
「マッチ、嫉妬しなくていいから。ほらほらいつでも飛び込んできていいから」
「千里、お前は鬱陶しい」
 両手を広げる友人に大仰にため息をつく松壱に、沖が笑う。
 それを睨んでから松壱は手にしていた残りの草餅を口に詰め込んだ。
「……ほんっとうに硬いな」
「もー、マツイチはしつこい!」
 手を振って怒る狐とそれを笑う三人、それらを見渡して、松壱は微笑んだ。
 どうしようもなく甘い笑みに沖が動きを止める。残りも同様だ。皆、頬を染めている。
「お前らは、俺がいないと駄目だな」
 しょうがないな、と呟く声は何かを確かめるような響きを帯びていた。
 色の淡い花が日向で綻ぶようなその笑みは、実に久しぶりに見る。沖が大好きな松壱の笑顔だ。
 沖は嬉しくなってこくこくと頷いた。
「そうだよ。だから、早く元気にならなきゃ。マツイチがいなきゃ駄目なんだから」
 その頭を松壱がすぱんと叩く。
「調子に乗るな。俺がいなくてもいいようになれ」
「あう」
 今度は頭を押さえる沖を横目に見ながら、黒刀がにやりと笑う。
「それは無理だ。沖はきっと四百年経っても進歩がない」
「それはひどいでしょーも。俺だって成長するよ。そういう黒刀なんか六百年経っても変わんないよ」
 どうしようもない言い合いを続ける妖怪どもに嘆息する松壱の横で、千里は羨ましそうに笑った。
「四百年とか六百年とか……そんな先まで考えられるって、ちょっと凄いよね」
 千里は二人が妖怪であることを知らない。その上での言葉だ。
 松壱は友人の横顔を見つめて、そして再び沖と黒刀、ユキに視線を移した。
「そうだな。そんなに長く付き合いを続けようって言うんだから……敵わないよ」
 小さく漏らされたその言葉に千里は目を瞬いた。それから笑う。
「マッチって風邪引くと人が変わるねえ」
「うるさい」
 ベッドの端で体育座りしている千里は膝の上で腕を組んで笑った。
「へへ、ほっとした。マッチ一人暮らしだって聞いてたからさ……。こんな仲のいい従弟がいるなら大丈夫だね」
 そう言いながら沖たちを見る千里の笑みは絶えない。
 松壱は嘆息して、皿の上の草餅を見た。そしてもう一度、いまだ黒刀と舌戦している沖を見る。
「まったく、どうしようもない従弟だよ」
 誰にも聞こえない声でそう呟いて、松壱もまた笑みを浮かべた。
 空を見上げれば冷たい風が駆けている。けれど朗らかな笑い声達はそんなことなど気にせずに、高く舞い上がっていった。