鬼の霍乱 3

「千里(せんり)……!」
 沖に導かれて姿を現した友人の名を松壱が驚いた声で呼ぶ。
「よう」
 短い挨拶を返し、芥千里は手を上げた。
「じゃあ、俺達はあっちの部屋にいるから」
 沖は黒刀――人の気配を察してか、いつの間にか洋服姿に変わっていた――を連れて襖を閉める。室内には松壱と千里だけが残された。
「……何しに来たんだ」
 起き上がって呻く友人に、千里は上げた手をそのまま横に振る。
「起きんなよ。病人は寝てればいいんだから」
「そんなの俺の勝手だ」
 睨んでくるブラウンの双眸をものともせず、千里はベッド脇の椅子に勝手に腰掛けた。脚を組んでその上で買い物袋を開く。
「風邪引きマッチにお土産ー。うわー、俺ってば優しーい」
「それを世間では恩着せがましいというんだ。ていうか、マッチって呼ぶな」
 わざと間延びした口調で喋る千里に松壱は頭を抱える。熱のせいではない、別の頭痛がしている気がした。
 千里が取り出したのは桃の缶詰だった。
「やっぱこれでしょ。冷やして食べろよ」
「それは冷えてないのか」
「うん」
 眉を寄せる松壱に対し朗らかに答え、千里はショルダーバッグも開けた。
「ほい、こっちは昨日言ってた資料な。コピーだからやるよ」
 この紙束は本来、図書館で渡されるはずだったが、それはできなくなった。松壱は明日でいいと言ったが、提出期限間近のレポートの資料ともなれば、見舞いがてら届けてやろうという気にもなるものだ。
 そうして千里は長い石段を見上げて少しの後悔を覚えながらも、高嶺家を訪れるに至ったわけである。
「……悪いな」
 そう言って紙束を受け取ろうとする松壱の腕を千里が捕らえる。掴まれた腕を不思議そうに見下ろす友人に、千里は笑いかけた。
「悪い、じゃなくて『ありがとう』。ほれ、言ってみ」
 思わず松壱は顔をしかめた。
 この言い草。まるでどこかの妖怪たちを思い出させる。
「……おまえさ……」
「ん?」
「……いや、いい。ああ、ありがとう」
 肩を落としながら礼を言ってくる友人に、千里は目を瞬いた。
「おや、存外に素直。なに? 熱があるから?」
 知るか、とぶっきらぼうに答えて、松壱は貰った資料をベッド脇の机に置く。
 それを待ってから、千里は身を乗り出すようにして首を傾げた。
「そういや、さっきの人たち誰? 弟? なわけないか、似てないもんね。親戚?」
「背が低い方は従弟」
 一般人用設定で松壱は答える。千里は襖の方を振り返った。
「あれが噂の……」
「噂?」
 松壱が目を細めると、千里は視線を戻して答える。
「正月三箇日にバイトしてるって、あれだろ?」
 合点がいって松壱は頷いた。どうやら地元民には沖はバイト従弟として知られているらしい。まさか誰も彼をこの神社のご神体、しかも妖怪だとは思わないのだろう。
「ああ、そうだ」
 口元に小さく苦笑を浮かべる松壱に、千里は更に問う。
「もう一人は?」
「従弟の友人」
 これはあながち嘘ではない。松壱はそのままを答えた。
 千里はやはり背後を窺うように振り返る。そして今度は憚(はばか)るように囁いた。
「背が高くてちょっと怖そうだな」
「……そうか?」
 付き合いの長い松壱にとっては、黒刀の無愛想な顔も見慣れたものだった。疑わしげに尋ねてくる友人に、千里は素直に頷く。
「お前も背高いなーとは思ってたけど、それより高いもんな。それになんだか睨まれた気がして……」
 客人を睨んだのか。あいつめ、と内心で呟き、松壱は手を振る。
「あー、あれは人見知りなんだ。慣れればバカみたいに見えてくる」
 本人がいないことをいいことに、好き勝手に説明する。それを察して、千里は笑った。
「仲がいいんだな」
「いいもんか」
 即答する松壱に千里は更に相好を崩す。
「そういうことにしておこうか」
「どういうふうにしても、そういうことだぞ」
 松壱は釘を刺した。

「友人? ふうん、軟弱そうな男だな」
 居間のテレビの前の座卓で、黒刀はつまらなそうにそう言った。白い長袖ティーシャツの上に黒いオーバーシャツを着て、ジーンズを穿いている。そうして、缶からせんべいを引っ張り出す様は、とても天狗には見えない。
 不満を含んだ彼の声に、沖が眉を下げる。
「お前さ、相変わらずだね。人間嫌い」
「悪いか。俺は人間は嫌いだ。子どもは特に嫌いだ」
 つんとそっぽを向く天狗を、沖は頬杖を付いて見上げる。
「高嶺の人間は平気なんだろう?」
「あれは慣れ」
 あっさりと答えて、黒刀はせんべいの袋を開ける。
「というか、なんであの人間は高嶺の風邪のことを知ってるんだ?」
「あー、うん、でも友達って言ってたし。メールかなんか打ったんじゃない?」
 今日は日曜日だから、芥という友人も見舞いに来る気になったのだろう。
「ああ、携帯電話か」
 わずかながら疎ましさを滲ませる黒刀に沖は苦笑して見せるしかなかった。
 彼が人間を毛嫌い“してみせる”理由はなんだろうか。親しくなってしまうのを恐れているのではないかと、沖はそう感じていた。
 じっと見つめられるのが煩わしかったのか、黒刀は話を変えた。
「そういえば、チビは?」
 問われて、沖ははたと気づいて辺りを見回す。
「あれ? ……散歩かな?」
 ユキが山へ入っていくことは何も珍しいことではない。
 だが、まだ朝食を取っていないはずだ。
「……自分で狩りに行っちゃったかな」
 もとは野生育ちのユキである。その気になれば、自分で餌をとるくらいはするのだ。
 どちらにせよ、慌てるような問題でもない。
「そのうち帰ってくると思うけど」
「それもそうだな」
 沖の答えに、黒刀もどうでもいいように答える。そして空になった袋を三角形に折りたたんだ。
 小さなおにぎりの形にたたまれた空袋が三つほどできたころ、二人目のインターホンが鳴ったのだった。