鬼の霍乱 2

「マツイチ、ほら体温計も。ちゃんと熱を計ってよ」
 上体を起こして水を飲む松壱に、ディジタル式の体温計を渡す。受け取りながら、松壱は眉を寄せた。
「熱があるって分かってて、何でまた計らなきゃいけないんだ」
 ぶつぶつ言いながらも脇の下に体温計をしまいこむ松壱に、沖は笑みを浮かべて見せた。
「時間を置いて、もう一回計ったときに熱が下がってたらほっとするだろ」
「下がってなかったらどうするんだ」
「そんなことは考えない」
 そう言って沖はタンスからタオルを引っ張り出す。
「ねえ、氷嚢(ひょうのう)とかはどこにしまってあるわけ?」
 首を傾げる沖に、松壱はさあと答える。
「そういうのはお爺様が管理してたんだよ。あの人が一番寝込まない人だったから」
「……じゃあ松蔵の部屋かな。それとも探すより冷却シートとか買ったほうが早いかな」
 悩む沖に松壱はそんなのはいらないと言う。
「それより一人にしてくれよ。寝たいんだ」
「ちょっとだけ待てる? 黒刀が薬草持ってくるからさ」
 タオルをベッドに投げ置いて、沖は窓の外を窺う。松壱は顔をしかめた。
「黒刀に言ったのか」
「当たり前じゃん。山の従者だよ。薬草に一番詳しいのはあいつなんだから」
「余計なお世話だ」
 と、言ったところへ、黒刀が窓から入ってくる。苦笑を浮かべる沖とベッドの上でぎくりと強張る松壱へ、彼はそれぞれ視線を向けた。そして小さく笑う。
「余計なお世話の登場だ」
 窓の桟から飛び降りて、黒刀はサイドテーブルの上の水差しを取った。薬が入っていると思われる紙袋を振ってみせる。
「一番効いて、一番苦い奴。覚悟して飲めよ」
「んなもん、いらねっ……っ……」
 叫びかけて咳き込む松壱の横に黒刀は腰を下ろした。
「鬼の霍乱ってやつだな」
 背中を撫でてやりながら、もう一方の手でコップに水を注ぐ。
「その熱もコイツを飲めばすぐに引くさ。本当に苦いが、遠慮しなくていい」
「覚えてろよ」
 優位に立って機嫌のいい天狗を松壱が睨む。が、もちろん黒刀はそんなことでは怯まない。
「そういうことはその可愛らしい涙目をどうにかしてから言うんだな」
「てめっ」
「ほい」
 怒鳴ろうと開かれた口に、ぽいっと丸薬が投げ込まれる。
「……っ!!」
「吐くなよ」
 口を押える松壱に黒刀がコップの水を差し出す。思いっきり眉間に皺を寄せたまま、松壱はコップを煽って薬を流し込んだ。
 零れて顎を伝った水を手の甲で拭き、松壱は口を押さえた。
「……っ……黒刀のバカ!」
 耐えられず目尻に涙がたまった。熱のせいで赤く上気した頬と汗に濡れたシャツが松壱を華奢な青年に見せる。その姿は幼少時、やはり熱を出して寝込んでいた彼を髣髴とさせた。当時の彼はまだ年相応に愛くるしく、黒刀にもよく懐いていた。
 そのことを思い出し、その松壱に非難されて黒刀は少し胸を痛めた。
 しかし薬はよほど苦かったらしく、松壱はおさまらず更に追い討ちをかける。
「お前なんか嫌いだ」
 ガーン――とかそんな感じの音が黒刀の頭の中で尾を引いて鳴った。
「そんなに苦かった?」
 側で見ていた沖が興味深そうに首を傾げる。松壱は喉を押さえて答えた。
「人を殺せるくらい苦い」
「……それで死なないマツイチは人じゃないってこと?」
「あのな……」
 そのとき、眉を寄せる松壱を含め、三人の耳にインターホンの音が響いた。
「お客さん?」
「居留守でいいさ」
 首を傾げて振り返る沖に松壱はほっとけと告げる。高嶺神社は小さな神社でもともと参拝者も珍しいくらいであるし、用があっても宮司が不在と分かれば引き返すものだ。
 だが二度、三度と響くインターホンに沖はついに立ち上がった。
「おい」
「大事な用がある人かもしれないじゃん」
 そう言って、沖は狐耳を人間の耳へと変化させ、髪も短くした。そして部屋から出て行く。
 ため息をつき、松壱は黒刀へと視線を向けた。なぜだかうなだれている。
(変な奴)
 頭の中で短く呟いて、彼は布団の上に寝転んだ。

「はーい、どちらさまですか?」
 沖が玄関を開けると、四度目のインターホンを押そうと構えている青年と目が合った。
 黒髪を短くした青年で、薄い眼鏡をかけている。黒いシャツと灰色のジーンズは幾分くたびれているようにも見えた。
「あ、えっと、俺、芥(あくた)っていうんですけど……」
 彼にとって沖の登場は予想外だったらしい。青年はあたふたと答える。
「えっと高嶺君と大学で……」
「ああ、マツイチの友達?」
「え、マツイチ? ……あっ、はい。……たぶんそうです」
 芥は頷く。
(『たぶん』て……)
 青年の困惑の原因が自分であるとも気づかず、沖は釈然としない気分で、青年に笑いかけた。
「マツイチはねー、風邪で寝込んでるんだよ」
「はい、知ってます。だから見舞いに来たんです」
 芥は買い物袋を掲げて見せた。何が入っているのか分からないが、重そうに袋が伸びている。
「あ、そうなんだ。ありがとう。えっと、じゃあ、あがって」
 中へ入るように示す黒髪の青年に、芥は頭を下げて高嶺家へと踏み込んだ。
「お邪魔します」