鬼の霍乱(かくらん) 1

 朝起きると、熱い湯気の立つお味噌汁と炊き立ての白いご飯が待っている。副食は日によって違うが、まあ焼き魚であることが多い。あとは歯を立てるといい音のするお漬物だ。
 いつものように目を覚まして、いつものようにうきうきしながら、沖はダイニングの扉を開けた。
 テーブルがいつもよりも広く感じた。いつもよりも冷たくて、ただひたすらに四角い。
 扉を開け放った姿勢のまま、沖は目を瞬いた。熱い湯気の立つお味噌汁と炊き立ての――以下略、がない。
「マツイチー?」
 声を上げるが返事はない。
「……寝坊かなー」
 松壱が寝坊するところなど、もう五、六年は見ていない。ありえないことだとは思うが、心当たりがないわけでもない。ここ連日、彼は大学のゼミで出された課題のレポートに追われてろくに寝ていなかったはずだ。
 沖は松壱の部屋の襖をノックした。
「マツイチー、入るよー?」
 やはり何の応答もなかったが、開けて中を覗く。
「マツイチ?」
 ベッドの端に明るい色の髪が見える。ただの寝坊か。いや――
「……マツイチ……?」
 何か、変だ。
 動物の直感でそう悟って、沖はそろそろと松壱に近づいた。
「……沖、か?」
 足音に気づいたのか、布団の中の頭が動く。しかし普段の姿からは想像も出来ない程、声が弱々しい。
 薄暗い部屋の中、逆光を浴びる狐に松壱は掠れた声を向けた。
「悪い、起きられない……。飯は適当に食べてくれ」
「マツイチ……もしかして……」
 呟いて沖は、首を捻って避けようとする松壱を押さえて、その額に触れた。
 思ったとおり、熱い。
「……って、ちょっ、半端じゃなく熱いんだけど!」
 三十七じゃきかない、三十八度はあるかもしれない。
「寝てれば治る」
 そう言って松壱は布団の中に潜り込む。
「待って、いつから? いつから熱があったんだよ?」
「喚くな。頭に響く」
 切羽詰って尋ねる声は不機嫌に一蹴される。沖はぐっと息を呑むと、声を低くして続けた。
「……冗談じゃない。寝てればいいなんて言われて、放っておくわけにはいかないだろ」
 松壱は、高嶺は代々沖を養ってきてくれた。その主人の大事に黙っていることなど出来ない。
「俺、なんか作るから……お粥とかさ」
「いらない」
「マツイチ……」
 食べなきゃ駄目だと言う狐に、松壱は寝返りをうって視線を向けた。
「きっと吐く。作るなよ、もったいない」
 沖はうつむいた。
 零れてくる言葉はいつもどおり毒っ気がある。だがこちらを見上げてくる双眸には覇気がなく、熱のせいか判然としない光を浮かべている。
「……分かった。じゃ、水だけ汲んでくるから」
「ああ、そうだな。それが助かる」
 下を見たまま唇を引き結んで、沖は部屋を出た。
 廊下で深呼吸をする。そしてきっと顔を上げると、沖はそのまま外を目指した。
「黒刀!」
 神社の裏から森に向かって声を上げる。間をおいて、反応がないのを確かめると、更に声を大きくして叫ぶ。
「早く来ないと標準録画してた映画の上にうっかり天気予報なんか録っちゃったこと、マツイチにチクっちゃうからー!」
「……っ卑怯だぞ!」
 バッと、側の木から逆さまに黒刀が顔を見せる。
「なんだ、そんなに近くにいるならさっさと来てくれればいいのに」
 唇を尖らせる狐に、黒刀は木の枝にぶら下がったまま眉を寄せた。
「てめえがこんな朝っぱらから俺を呼ぶときはろくなことがないときだ」
 きっぱりと言う黒刀に、沖は両の拳を握って見せた。
「マツイチが熱出して寝込んでるんだよ」
 黒刀が瞬く。二回、三回と瞬きを繰り返して、彼はやっとを口を開いた。
「昔はよくあったじゃないか。だいたい、あいつはそこんとこあんまり丈夫に出来てないんだよ。今更、慌てるな」
 その言葉はカチンと沖を叩いた。顔に黒い影を落とす。
「黒刀のバカ、アホ。薄情な黒刀なんか豆腐の角に頭ぶつけてヒヨコでも回せばいいんだ」
「……」
「もー!! ぼさっとしてないで、薬草!! 一番効く奴よこせ!!」
 遠慮などかけらも見せず手を差し出してくる狐に、黒刀は双眸を細めた。
「おまえ、人に物を頼むときはもっと謙虚にだな……」
「ばかー! 悠長にしててマツイチが死んじゃったらどうするんだよ!」
 ついに半泣きになって喚く沖に、黒刀は木から飛び降りて首を傾げた。
「そんなに酷いのか?」
 実際、あの宮司が病で死ぬなどありえないとは思う。だがこれほど沖を心配させる状態ではあるらしい。
 沖は小さく頷く。
「……ご飯、食べられないって……」
「それは熱があれば誰だって……」
 言いかけて、黒刀は口を噤んだ。
 ――そう、熱があれば誰だって苦しいのだ。
「分かったよ、薬草な。裏の庵まで行かなきゃないから、ちょっと待ってろ」
 頷いて涙を拭う沖の頭を叩く。
「バカ。泣きたいくらい辛いのは高嶺の方だろ。お前は側にいてやれ」
 叱咤激励を受けて、沖は笑った。
「黒刀が優しいと気持ち悪いや」
「んなことぬかしてると、薬草やらねえぞ」
 そう告げて、黒刀は地面を蹴ると空へと舞い上がった。黒い翼が地面に影を落とす。
「頼んだよ」
 沖が声を張り上げると、黒刀は片手を上げて見せた。羽ばたいて、離れていく。
 それを見送っていた沖は、神社の影に隠れていた人物が銀色のシッポを揺らしながら森の中へと分け入っていくのに気づかなかった。