正月 5

「それはさておき」
 と言ったのは話を振った当の松壱だったが、残りの二人は口を挟むこともできず、彼の一挙一動に警戒をしている。
「お前が放火魔の正体であったことは間違いないようだし」
 宮司の言葉に火餓坊は愛想笑を浮かべてみせる。松壱もそれに笑みを返した。
「一発殴るくらいはしても罰(バチ)は当たらないよな」
 そう言って黒刀を見やる。黒刀は何故自分が指されたのかを理解しながら、頷いて見せた。
 罰を当てるのは神である。ここで松壱が言う神とはやはり揺草山の山神を指すのだろう。そして黒刀はその山神の従者だ。
「問題ないと思う」
 宮司が暴力を振るうなど本来ならば決して良いことではないのだが――宮司でなくても暴力を振るうのは問題だが――、山に害なす妖怪が相手では山神も目をつぶるだろう。
「そ、そんな! だんな! 妖怪のくせに人間の味方をするのかい?!」
 黒刀は眉を寄せて、縋りついてくる火餓坊を見下ろした。
「妖怪だからとか人間だからとかじゃなくて、更に言えば正義の味方を気取る気もない。ただ、俺は悪い奴の味方はしない」
「悪い奴! そりゃあ、まさにあの神主のことだぜ! 挨拶もなしに人の頭に蹴り入れて、そのうえ殴ろうってんだから」
「お前は放火未遂犯だろう。ああ、既に未遂じゃないところもあったな」
 松壱が口を挟んで、拳を握る。
 火餓坊は跳び上がって黒刀の後ろに隠れた。顔をしかめる天狗の陰から頭だけ出して喚く。
「そんな霊力の詰まった拳で殴られたら頭に穴が開いちまうよ! まったくどうしてあんたの霊力はそんなに馬鹿でかいんだ!」
 それは、――禁句だ。
 松壱の双眸が燃え上がる。黒刀は火餓坊の首根っこを掴むと、地面を蹴った。ほぼ同時に松壱の凛とした声が響く。
「爆拍!」
 前振りもなく、さきほどまで二人が立っていた地面が爆砕した。爆音が轟く中、火餓坊が聞こえない悲鳴をあげる。その悲鳴を聞きながら、松壱が更に攻撃を仕掛けようと腕を上げる。
 黒刀は舌打ちをして、錫杖を松壱に向けた。
「起風!」
 落ち葉を巻き上げる突風が吹き、松壱が両腕で防御の姿勢をとったため、黒刀と火餓坊への次の攻撃はなかった。
 着地して火餓坊を放り出すと、黒刀は立ち上がって錫杖を構えた。
「高嶺、落ち着けよ」
 松壱がこちらを睨む。舞った木の葉で切ったのか、手の甲からは血が流れていた。
(沖にどやされるな)
 内心でため息をつき、黒刀は続けた。
「殺すのは、駄目だ」
 血に濡れれば松壱はきっと宮司の資格――すなわち、沖の主としての資格をなくす。
 そのことは彼自身も分かっているはずだ。深く息を吸い、止めて、松壱は長くそれを吐き出した。
「……自制心が足りない」
 ぼそりと小さく呟かれた声が黒刀の耳に届く。彼は苦笑を浮かべると、錫杖を引いた。
「気にするなよ。お前、そんなんだからストレスがたまるんだよ」
「……そうか」
 疲れたような表情で、松壱は火餓坊を見た。
「……殴っていいか?」
 えっ、と戸惑う火餓坊に黒刀が低く囁く。
「死ぬかコブかだ」
 火餓坊は息を呑むと、すごすごと立ち上がった。
「分かったよ。ああ、確かに俺が悪いしな……」
 そうして自分の前に立った妖怪を見下ろして、松壱は微笑んだ。新春の肌を刺すような寒さの中で、それは蕾がうっかり開いてしまうような笑みだった。
 思わず唾を飲んだ火餓坊に、松壱は笑顔のままこう告げた。
「悔い改めろ」
 火餓坊がさっと青褪める。
「あっ、やっぱ待っ!」

 鈍い打撃音は木々に吸い込まれて短く消えた。

「開門、双刻の暗」
 地面に突き立てられた錫杖を軸に黒い線が上方へと伸びる。線は扉を開くようにして広がり、三人の前に四角く穿たれた闇が現れた。
「ほら、さっさと帰れ」
 黒刀に顎で示されて、ぶつぶつと言いながら火餓坊は前へ進んだ。
「あーあ、せっかく現世に来れたのによお。ボヤばかりで大火事にもならなかったし」
「よかったじゃないか。大火事になってたら、それこそご神体自ら、お前を殴りに来てただろうよ」
 火餓坊の背を押しやりながら、黒刀は同情気味にそう言ってやった。
「だんなも苦労するね。……じゃ」
 最後に火餓坊はにやりと笑って、こちらに手を振ると、跳ねて闇の中へ消えていった。
「余計なお世話だ。――閉門」
 異界と現世を繋ぐ扉を閉めて、黒刀は松壱を振り返った。錫杖はしゅるりと消える。
「そういえば、お前神社を放ってきてよかったのか?」
「『オキツネ様』がいればいいだろ」
 松壱は風で乱れた前髪に手を差し込んだ。そしてちくりとした痛みに気づく。
「……」
 手の甲の傷を見下ろして黙り込んだ宮司に、黒刀は頬を引き攣らせた。
「えーと……、客が来て忙しくなっているかもしれないし、さっさと戻ろうぜ」
 山道の上方を指差しながら、そう促す天狗のほうは見ず、松壱は傷を舐める。その無言に黒刀は圧迫感を覚えた。
「……高嶺」
「帰るぞ。お前、途中サボったんだから、残り時間きびきび働けよ」
 さっさと歩き出す松壱の後姿を見たあと、黒刀は視線を移動させて地面に倒れている男を見下ろした。松壱がその男に関して全く触れなかったのも頷ける。男はただ眠っているだけだった。
(妖怪にとり憑かれていたんだから疲労してるのは分かるが……、情けない)
 コートも着込んでいるし、今日は晴天だ。暖となる妖力を少し与えておけば、あとは放っておいても、目を覚まして自力で街まで帰っていくだろう。こんなことで、人間と関わる気にはならない。
 男が冷気に耐えられるよう術を放ってから背を向け、不意に黒刀は気づいた。
「俺、サボリなのか!? 沖だぞ、俺に行けって言ったのは!」
「雇ったのは俺だぞ。雇い主への断りもなしに抜ければ、それはサボリだろう」
「雇われてなんかない!」
 叫ぶが、松壱は無視してさっさと細い道を登り始める。ふん、と鼻を鳴らして黒刀は後を追った。
 無言で進むうちに黒刀はいつの間にか、薄暗い道に時折落ちてくる光の筋を松壱の茶髪が弾く様を注視していた。その異国の色が高嶺に混じったのは先々代の頃だが、黒刀にとっては未だ珍しい色である。
(綺麗な色だと思うんだけど、な)
 激昂した松壱を思い出す。
「お前、そんなに自分の力の『元』が嫌いか?」
 松壱は一度足を止め、そしてまた歩き始める。黒刀が無視されたかと思った時、小さな声が返ってきた。
「嫌いだ」