正月 1

「これとこれ、ください」
 指差されるのは学業と家内安全のお守り。
「娘さん、今年受験ですか?」
 背後から話しかけて笑うのは、高嶺神社の神主、高嶺松壱である。日本人には珍しい淡い髪の色をしているが、意外と和装が似合う。
「ええ、そうなの。うちの子は松ちゃんみたいに頭が良くないから、神頼みしないといけないのよ」
 そう答えて笑う中年の女性に、沖は袋に入れたお守りを渡した。
「そんなことないですよ。お嬢さんは努力家でしょうから必ず志望校に受かりますよ」
「そうだといいけどねー。沖ちゃんこそ、毎年この時期は従兄のお手伝いなんて偉いわよ」
 ありがとうございます、と告げて沖は松壱を見つめた。
(望んで手伝ってるわけじゃないんですけどね)
(黙って働け)
(ていうか、従兄ってなんですか。誰ですか)
(うるさい)
 間に品台を挟んで、神主と売り子は睨みあった。
 そんな二人を無視して、沖の隣の青年が話しかけてくる。
「おい、沖。つり銭が足りないぞ」
「品台の下の箱に入ってる」
 背の高いその青年は億劫そうに台の下を覗く。それを見下ろしながら、沖はため息をついた。
「黒刀(こくと)、いい加減覚えてくれよ。何年、ここの手伝いしてるのさ」
 そう言うと、青年――黒刀は手を止めた。ジロリと振り返る仕草に合わせて短い黒髪がさらりと揺れた。冴える朝の空気をまとったような端正な顔立ちの男だ。淡い紫を帯びた黒い双眸は切れ長で、睨まれると迫力がある。しかし、長い付き合いでそれも見慣れた沖は、相手の視線をなんの気負いもなく受け止めた。
「覚えてどうしろというんだ。俺はお前達の手足じゃないんだぞ」
 不満げに答える彼の正体は烏天狗だ。揺草山に棲むもう一頭の獣。今は人の姿をしているその男を松壱が見下ろす。彼は冷ややかに言い放った。
「毎年毎年、大晦日に年越し蕎麦をタダ食いしてるのは誰だ」
 黒刀はそっぽを向く。
「沖じゃないか?」
「お前だ。そのまま泊まった挙句、雑煮まで食べやがって」
「そんなこともあったな」
 はぐらかす黒刀に松壱は突き刺すような眼光を向けた。
「黙って働け」
 周りの者には聞こえないほどの声だった。だが人ではない黒刀と沖には十分な声量で、それだけ告げると松壱は身を翻して人の波の間を去っていった。
「……ったく」
 黒刀の呟きを聞いて、沖は苦笑した。
「懲りないね」
 仏頂面でこちらに向き直る天狗に沖は続けた。
「黒刀がうちの世話になったのは間違いないんだから、手伝いくらいしてもいいじゃないか」
 たしなめながらも、沖はこの男は案外「手伝うため」に食事に来ているのではないかと思っている。素直にはなれない理由が彼にはあるのだ。
 黒刀は長い足を窮屈そうに組み直すと、ついでに腕も組んだ。
「頼まれるにしても、あいつは実によくやる気をそいでくれる」
「まあ、可愛げはないけど」
 適当に返しながら、沖はこの男に店番に対する「やる気」なんてものがあっただろうかと疑った。疑惑の眼差しには構わず、黒刀は相手の笑顔に眉を寄せた。
「お前のその緩い笑みも、やる気をそぐ」
 きっぱりと言われて沖は苦笑した。自分の頬を引っ張ってみせる。
「そうかな?」
 そう言ってまた笑う狐に黒刀は胡乱(うろん)な眼差しを向ける。
「無自覚ならなお悪い」
「……え?」
 意味が分からず沖は首を傾げて見せるが、彼はそれ以上答えなかった。追求してさらにやる気をそいでも仕方ないので、沖はそのままこちらに向かってくる客に視線を移した。

 そういえば、と沖が切り出したのは、一時的に客が減った頃だった。
「年末あたりにさ、ボヤ騒ぎが何件かあっただろ?」
「知らん」
 黒刀は短く答える。
 揺草山の裏側にある小さな庵で暮らしている彼に、人間側の情報はあまり入ってこない。彼の中で最新の情報といえば「白が勝った」である。
「あったんだよ」
 沖は青い双眸を細めて続けた。
「まだ大した被害にはなってないけど。どれも普段は火の気のないところで発生しててさ……」
「火の気のないところは、そして、ひと気のないところでもあったんだろう?」
 黒刀が指摘すると、沖は振り向き、その青い瞳に浮かぶ光を強めた。
「犯人はまだ捕まってない」
 ほとんど睨み合うような格好で沖と見つめ合っていた黒刀は、やがて息を吐いた。
「なるほど。それで最近、高嶺神社の御神体様は機嫌が悪いわけだ」
「……ああ」
 先ほどの黒刀の言葉を理解して、沖は「バレバレ?」と聞き返す。不機嫌を隠して作った笑顔だと見抜かれていたのだ。黒刀は頷く。
「チビがうろついてないのがいい証拠だ。あれでも多少は使えるのにな。おかげで仕事が増える」
 彼の言う「チビ」とは銀狐ユキのことを指す。沖は苦笑を返した。
「家で留守番をしてるんだよ」
「まあ、いいさ。お前より高嶺のほうが機嫌悪そうだしな」
 聞こえないとはいえ、周りに大勢の人がいるのにあのように毒を吐く高嶺など、らしくないにも程がある。よほど気に障ることでもあったのだろうと黒刀はあたりをつけていた。
「高嶺もそれでああなってるのか?」
 黒刀は両方の人差し指を頭の横に立てて見せた。もちろん鬼の角を示している。
 笑いながら、沖は首を振った。
「放火のニュースを見てもマツイチは無関心だったよ。……マツイチが理由も見当たらないのに不機嫌なときは風が悪いときなんだ」
「ああ、例の……」
 石段を駆け上がってくる風、それが悪いと嫌なことが起きるらしい。松壱の予知ともただの勘ともとれるその感覚は、沖と黒刀には理解できないものだった。
「で? 急にその話をして何を」
 言いかけて、黒刀は顔をしかめた。
「高嶺の不機嫌とお前の不機嫌の原因が重なったりする、とか言わないだろうな」
 沖はにっこりと笑う。今度は機嫌の悪さなど垣間見ることさえ出来ない笑みだ。
「嬉しいなあ。黒刀は察しが良くて」
 狐の言葉は更なる労働の要求と等しい。黒刀は耐え切れず、またため息をついた。