肩こりの少女 6

 古い神社へ繋がる長い長い石段。苔のある、その神社同様に古い石段を今日は少女が軽やかに駆け上っていく。
 とんっと、最後の段を蹴り、優は肩で息をした。学校から家に帰り、荷物だけを持ち替えてこちらへ来たので制服姿である。
 鳥居をくぐり、まっすぐに狐の社を目指す。と、ふと空を仰いだところで、彼女の目は止まった。
 社の近くには銀杏の巨木が生えている。その枝。
「えーっと……」
 無意識に呟く。
 まだ緑をしている葉の茂った枝の生え際に、黒い獣がのっている。優は眉根を寄せて、目を凝らした。
 柔らかそうな尻尾をだらり垂らして、それはすやすやと眠っているように見えた。
「……お、沖様?」
 小さな声で自信なさげに呼んでみる。
 ぴくりと、黒い耳が動いた。
「沖様?」
 再度呼びかけると、黒い獣は首を上げた。ぴくぴくと耳を動かしながら、下を見下ろす。
「……あれ……優?」
 やがて漏らされた声は間違いなくあの青年のものだったが、どこかぼんやりと寝ぼけた響きを帯びていた。
「はい。あの……沖様、お昼寝ですか?」
「うーん、でももう起きるよ」
 答えて、黒い狐はふわりと跳んだ。途中で一回転して、地面に降り立つ。
 目の前にやってきた狐に、優はおずおずと尋ねてみた。
「いつも、その格好で寝るんですか?」
 すると狐は左右に首を振った。どことなく愛らしい動きに、思わず優は笑いをこぼしそうになるのを堪えた。
「久しぶりに人間に完璧に化けてたからさ、ちょっと疲れたみたい。やっぱり靴はダメだね。足がむくんじゃってさ」
 言いながら座って、前足で後ろ足を撫でる。
 目を閉じて声を聞いていると、黒髪の青年の姿が容易に想像できるのだが、優はもう我慢できなかった。彼女は犬や猫はもちろん、動物全般が大好きなのだ。
 自分も座り込んで、狐の頭を撫でてみる。
「……優?」
 手の中の、毛並みの良い頭が小さく傾げられる。優ははっとして手を放すと、あははと笑ってごまかした。
「えーっと……、あっ、沖様、今日はお礼を持ってきたんですよー」
 ぎこちない笑みを浮かべながら、優は包みを引っ張り出した。ぴくんと、沖が反応したのが分かった。さすがに鼻が良いらしい。
「優、もしかして……」
「はい、お稲荷さんです」
 ぱたぱたと尻尾を振る沖に、優は笑いながら母が用意してくれた風呂敷を開いた。中から黒い重箱が二段現れる。沖は目を輝かせた。
「やったー!!」
 御狐様の好物が稲荷寿司であることは高嶺神社の案内板に書かれている。しかし、御狐様の存在自体が偶像的であったので、優はこのときまでそれが本当だとは信じてはいなかった。
(よかった、お寿司にして)
 しかし、ほっとしたのも束の間であった。
「やったー、じゃない!」
 跳び上がるように喜ぶ沖の背後から、不機嫌な声が響く。
 優が目をやるとそこには、袴を穿いた宮司が箒を片手に仁王立ちしていた。
「あ、高嶺さん、こんにちは」
「こんにちは」
 うっかりいつもの癖で微笑み返してから、松壱はさっと眉を吊り上げた。
「って、違う! 沖!! いつも人から物をもらうなって言ってるだろう!」
「なんだよー、犬のしつけじゃあるまいしー」
 振り返った沖が、松壱に文句を言う。
「犬のしつけで上等だ。ったく、餌付けされてんじゃねぇよ」
「餌付けじゃありませんよ」
 さすがの優も立ち上がって、宮司に言い返した。
「一昨日のお礼です」
 松壱のブラウンの双眸が、ブレザー姿の少女を捉える。それからにっこりと微笑んでみせる。
「それはどうもありがとうございます。お気持ちだけで十分ですので、その妖怪狐に勝手に餌を与えないでもらえますか?」
 宮司の笑みは完璧だったが、その言葉には間違いなく棘があった。彼はすでに目の前の少女に愛想を振りまく必要はないと悟っているのだろう。浮かべている笑みは挑戦的なものだ。
 やはり、と優は思う。
「あなた、二重人格ですね?」
 びしっと指を差して、言い切る。
 不意を突かれたのか、宮司が目を瞬く。足元で沖が噴き出したのが気配で分かった。
「誰が二重人格だって?」
 宮司は頭を抱えてそう呻くと、優を睨んだ。
「愛想を使って何が悪い? 立派な処世術だ。君がその狐に礼を渡すようにな」
「じゃあ、こっちのことも放っておいてください」
 松壱がこちらに歩み寄りながら、答える。
「癖になるからダメだ」
「マツイチはけちだ」
「うるさい。稲荷寿司の食いすぎで腹を壊すたびに、迷惑かけられてるのは俺だぞ」
 ぽつりと呟いた狐を松壱が一睨みで黙らせる。そこへ明るい声が響いた。
「わーい、お稲荷さんの匂いだあ」
 そばの草陰から、銀髪の少女が飛び出してくる。
 が、その首根っこはさっと松壱に捕まえられた。宙で足をばたつかせながら、ユキが泣く。
「あーん、放してよう」
「育ての親に似すぎなんだよ、お前は。なんで野生育ちの癖に寿司なんか食べるんだ」
 少女のお尻に、昨日はなかった銀色の尻尾を見つけて、優は首を傾げた。
「あれ? その子も狐?」
「そう。銀狐」
 沖が頷く。その黒い前足が重箱のほうに伸びているのを優は見た。
 あ、と声を上げる間もなく、ひょいっと器用に爪を引っ掛け、宙に上がった稲荷寿司をぱくんと狐が食べた。
「あっ! てめえ!」
 松壱が怒りの声を上げる。
「いいじゃん、たまにはさ」
「そうよー、頑張ったんだからご褒美ちょうだいよー」
 二匹の狐に鳴かれて、松壱はついにため息を吐き出した。
「ああ、もう好きにしろ……」
 呟いて、仔狐を掴む手を放す。ぱっと地面に降り立ち、ユキはとことこと重箱のほうに駆けてきた。
「わーい、いただきます」
 嬉しそうに手を合わせて、挨拶をする。
 その横で尾を振る沖は、しかし松壱に後ろから抱えあげられた。
「わ、放せよ」
 じたばたと暴れる狐に、松壱は顔をしかめた。顔を引っかこうとする前肢を避けながら、言いつける。
「だめだ。ちゃんと手で食べろ」
「えー」
「えーじゃない。ガキか、お前は」
 言いながら、沖を両手で抱えたまま、松壱は神社からやや離れたところにある自宅のほうに足を向けた。
 狐を連れて去っていってしまった宮司を疑問に思って、優はユキに尋ねた。
「ふたりともどこへ行ったの?」
 口の中の稲荷を呑み下して、ユキは男二人が去っていったほうを振り返った。
「んとね、沖様の服を取りに行ったの」
「服って、人間に化けたときに出てくるものじゃないの?」
「うーん、不可能じゃないけど、ムダに妖力を消費しちゃうから」
 答えながら次の稲荷へと手を伸ばす少女を見やり、優はそれからもう一度、ここよりもいくらか低い位置に建つ宮司の家を見つめた。
 そうしていると、やがて和服の青年が歩いてきた。黒髪が風になびく。
「靴はダメだけど、洋服はいいね。和服は着るのに時間がかかってさ」
 だるそうに言いながら、沖は優に笑いかけた。
 それからせっせと稲荷を口に放り込む仔狐を抱き上げる。
「こら、地べたで食べちゃダメだよ」
 先ほどとは打って変わった沖の物言いに優は目を瞬いた。沖は少女を片手に抱え、もう一方で重箱を持ち上げると社のほうへ歩き出す。
「どうもな、狐の姿のままだと本能のほうが強いらしい」
 ぼーっと沖を見送っていた優の背後から、宮司の冷めた声が響いた。
 振り返ると、松壱が疲れた双眸を向けてきた。
「だから、狐姿のあいつに餌をやるなって言ったんだ」
「……そういう理由があるならちゃんと言ってくださいよ。あんなふうに言われたら、誰だって反発しますよ」
 唇を尖らせながら言い返すと、宮司は苦笑をこぼした。
「まいったな。ユキがもう一匹増えたみたいだ」
「……え?」
「なんでもない」
 首を傾げる少女にそれだけ答えて、松壱は沖の後を追って社のほうへ足を踏み出した。
 その後姿を見ながら、悟って、優は嘆息した。
「なんだ。ひねくれてるだけなのね」
 呟く。
 その声は誰にも聞こえなかったらしい。稲荷を食べる二人はもちろん、言われた当人もこちらを見ない。
 優は笑って、空を仰いだ。沖の瞳のような、綺麗な青が広がっている。
「優!」
 心地よい風に目を閉じようとしたところへ、沖の声が響いた。
 こいこいと手招きしている。片手に持った稲荷寿司を高く掲げて見せたところから、一緒に食べようと言うことなのだろう。
 思わず笑みがこぼれる。優は三人のもとへ駆け寄った。
 狐の社はその日は珍しく人間の客を迎えて、いつもより少しだけにぎやかに一日を終えた。

「そういえば、沖、おまえ小鬼はどこにやったんだ?」
 部屋を掃除しながら、廊下に座っている狐に松壱が問いかける。廊下は縁側に面しており、沖の背後は庭になっている。晴天のために背中側が温かく、心地よいので、沖はもう長い時間そこに座っていた。
「んー、いるよ?」
 沖は膝の上に乗せた松壱の本を読みながら、顔も上げずに答える。
 優が初めて神社に来た日以来、松壱は小鬼を見た記憶がなかった。怪訝そうに眉を寄せて尋ねる。
「どこに?」
「マツイチの肩の上」
「……」
 掃除機を止め、自分の肩に手をやる。それから松壱はふっと笑みを浮かべると、投球姿勢をとった。
「この、バカ狐!」
 投げつけられた小鬼は見事にストライクを決めた。沖の顔面に当たって、ずるずると落ちる。
 沖はぽてっと本の上に落ちたそれを拾い上げた。涙をこぼす小鬼の頬をつつく。
「全然、気づかなかったくせに。霊力有り余ってんだから、少しくらい分けてくれたっていいじゃないか。なあ?」
 手のひらの上でこくこくと頷く小鬼に笑って、沖はそれを自分の肩に乗せた。
「ま、これで一件落着、かな」