肩こりの少女 4

 ユキを連れて歩いていた沖はぴたりと足を止めた。
 羽山優の通う高等学校、その目前。正門の前に、黄色いネクタイリボンをした女子生徒がこちらを見て立っていた。
 始業時間はとっくに過ぎていて、授業の始まった今、学校の周りは人気がない。校内には驚くほどの人がいるのに――静かだった。
「待ったぞ」
 こちらを確認する動きにあわせて、薄い眼鏡のレンズが陽光を弾く。
「なんでその格好なのさ」
 どうでもいいことだったが、沖は薄い笑みを浮かべて続けた。
「趣味?」
 尋ねると同時に、突風が顔を打った。
 反射的に目を閉じる――閉じながら、沖はユキの首根っこを掴んで後ろへと大きく跳んでいた。
 先ほどまで立っていた位置には、鬼が立っている。その手を赤く光らせて、切り裂く形で前へ突き出している。
 赤い腕はもはや少女のものとは言えなかった。筋肉が盛り上がり、手の平は少女の顔の二倍はあるだろうか。鬼の腕だ。
「避けたか……。まあ、よい」
 金の双眸が剣呑に光る。ぺろりと舌なめずりをして。
「そのほうが、狩り甲斐がある」
 濁った声。だが、妙にはっきりと耳に届く。
 その声に合わせるように、生暖かい風が吹いた。鬼の内から溢れる妖力の余波か。
 ユキを背後に隠し、沖は片足を引いて構えた。
「簡単に狩られるわけにはいかないな」
 答えながら、頭の中に力の線を描く。
 妖しの血が作り出す妖力。それが全身を巡るイメージ、頭から肩へ腕へ指先へ、胸へ腹へ足先まで。妖力は常に生産され、妖術はいつでも発動できる。
 戦闘体勢に入った沖を見て、ユキは後ろへ下がった。懐から昨日摘み取った葉を取り出す。それを手の平にのせ、妖力を吹きかける。葉は緑の光と化し、ユキの周りに降り注いだ。簡単な防御結界である。
 ユキは沖の戦闘には手を出さない。手を出すことはすなわち彼の足を引っ張るということだからだ。
「沖様、頑張ってください!」
 結界の中でこぶしを握る。
 振り向きはしなかったが、沖はその声援に対して微笑を浮かべた。
 そして地面を蹴る。鬼は腕を振った。縄を投げたかのように、その赤い腕が沖へと向かって伸びていく。沖は地面を強く踏み、跳び上がってそれを避けた。
 宙での一瞬の無重力状態。真横に鬼がいた。口が裂けるほどの笑みを顔に貼り付けている。そして先ほどの腕は地面に放り出したまま、もう一方の腕を伸ばしてくる。
「っく!」
 空中で体勢を変える事は困難だ。その鋭い爪の生えた手を沖が避けられたのは、天性――獣のしなやかさゆえだろう。
 完全に頭から落ちる姿勢にありながら、沖は片手を突き出した。全身の力を一度手に集中させ、叫ぶ。
「抜光!」
 光が迸る。抜き放たれた刃のように。
「こざかしい!」
 鬼の一吼えで、光刃が掻き消される。舌打ちして、沖はくるんと回転し、地面に降り立った。
「……ふう」
 息をついて、伸ばした腕を引き戻している鬼を見やる。
(やっぱり、完全な人間の姿じゃ厳しいな…)
 少女の姿をした鬼は余裕の視線でこちらを見返す。
「どうした、こんなものか。やはり、ただの妖狐は弱いのう」
「自己過信は褒められないよ。なあ、ただの大鬼さん」
 間髪入れず毒を吐く沖に、鬼が眉間にしわを刻む。双眸の輝きが増す。
「まずは、その口から切り裂いてやろう」
 挑発に乗りやすい相手だ。そう思いながら、沖は待ちの構えを取った。
 意識を集中しようとした、その瞬間だった。
「沖様!!」
 両者の緊迫を貫いて響く声。
 ユキではない。
 沖は目を見開いた。
 なぜ――理解するより早く、視界に少女の姿が飛び込んでくる。紺色のブレザー、緑のネクタイリボン、そして短い黒髪と澄んだ瞳。
「優!!」
 意識する前に、喉に声が走る。
 鬼が、金の双眸が、彼女の姿を捉えた。
「ちっ、出てきたか……」
 姿を見られてはもう容易には取り憑けない。優のような、霊感の強い人間には。そしてそれで諦めるほど、鬼の独占欲は弱くはない。
 鬼の舌打ちが耳に届くと同時に、沖は駆け出していた。
「優、逃げろ!!」
「ダメ、沖様!」
 背後から止めるユキの声があったが、それはもう沖の耳には届かなかった。
 なぜ、叫ばれるのか。なぜ、見ず知らずの少女がこちらへ向かってくるのか。優の頭の中は間違いなく混乱していた。

 視界が反転して、明滅する。聴覚はまったく働いていなかった。どこかを地面にぶつけた。いや、壁かもしれない。ぶつけたところが痛む。だが、どこが痛いのか分からない。全身が痛いような気もした。
 ――何も分からない。

 目を開けると、誰かが自分に覆いかぶさっていた。
 誰なのか逆光で判別できない。ただ、何か温かいものが手を濡らしている。
 その感触に違和感を覚えながらも、優の思考回路は回復した。自分は仰向けに近い状態で、校舎を囲む塀に寄りかかっていた。ひどく痛むのは背中で、おそらく壁にぶつかってから、ずり落ちたのだそう。
 自身の状態を理解してからだった。塀に手をついた形で、自分を庇う者が誰なのか分かったのは。
「大丈夫……?」
 昨日も聞いた、柔らかく響く声。だが、掠れてひどく弱々しい。
 のろのろと見上げると、髪の短くなったオキツネ様がいた。こちらを見下ろして、笑んでいる。
「沖さ……」
「沖様!!」
 自分と重なる甲高い声。
 その声の主が誰なのか、それも確かめようと視線を動かす。
 が、できなかった。視線は途中で止まり、そして動かせなくなった。
 目の前の青年の服から、ぽたぽたと何かが滴っている。優の手を濡らしていたのはそれだった。
 彼岸花のように鮮烈な赤。暖かいまま手に落ち、そしてあっという間に冷える。
 血だった。
 ひゅっと喉が掠れた音を立てた。急に体が震えだす。
 沖の背中は鋭い何かで引き裂かれていた。
「……お……沖さ、ま……」
 声もどうしようもないほど震えたが、それでも相手には通じたらしい。
 大丈夫だから、と小さく呟かれた。
「……なぜだ……」
 低い、ホラー映画で聞くような不気味な声が聞こえてくる。
 優がそちらを見やると、眼鏡をかけた少女が、驚愕の色で染まった顔をこちらに向けていた。
「……なぜ、人間を庇った?」
 問いに、沖が振り返る。動作はひどく緩慢で、水色の瞳がだるそうに光った。
「……守りたいと思ったから」
 男の声をした少女の顔が奇妙に歪む。優は不思議な気持ちでそれを見た。彼女は人間じゃないのだと、心のどこかが勝手に認識する。
「馬鹿な」
 眼鏡少女が続けて叫ぶ。
「馬鹿な! 人間は餌だ! それを庇うなど……っ、貴様は、どうかしている!!」
 鬼の叫びに、沖は笑った。乱れた黒髪が、その笑いを酷く退廃的に見せる。
 それは自嘲だった。
「……知ってる。俺は壊れてる」
「沖様!」
 ユキがやめてと叫ぶ。だが、掠れた声はぽつりと漏らした。
「……あの日、壊れた……」
 意味の分からない独白に、鬼も優も眉を寄せる。ユキだけが泣きそうな顔をしている。
 長い間があった。誰も動かない。上空の雲の影だけが場を流れていく。
 一番はじめに動いたのは鬼だった。口を開いて告げる。
「何のことかは知らんが、壊れたものは戻らない。簡単なことだ。……私が廃棄してやろう」
 その言葉に、沖は今度は挑戦的な笑みを返した。
「それは困る。死んだら許さないと言われているから」
 立ち上がる。滴る血が、先ほどより激しく地面を打った。
 思わず、優は沖の服を掴んだ。
「大丈夫だよ」
 振り返ってそう言う沖に、優は首を振った。
「……どうして……」
 何が壊れてるとか、そんなことはどうでもいい。彼は正気だ。それだけでいい。
 ただ、何故彼は顔を知っているだけの自分を守ってくれるのか。そのことが分からず、分からないから傷つく彼を見過ごせない。
 沖の手が優の頬を撫でた。
「……誰も死なせない。俺はそう決めたから。だから」
 分からない。
「どうして……」
 同じ質問を繰り返す少女におかしくなったのか、沖は場違いな明るい笑みを見せた。
「そりゃあね、四百年も生きてると色々あるんだよ」
 優は目を見開いた。
 彼は人間ではない。人間の何倍もの時を生きる妖魔だ。そこに理由がある。
 掴む手を放した優に、沖は頷いて鬼を振り返った。
 ゆっくりと構えを取る。だが。
「だめー!」
 ユキが走ってきて、沖の足にしがみついた。
 優が目を見開き、鬼もどこか間の抜けた顔をしている。
「……ユキ」
「だめです! それ以上は無理です!」
「そうも言っていられないだろう……」
 困ったように言ってくる沖に、銀髪を振りながらユキが叫ぶ。
「嫌です!」
 青年の血で顔を汚して、更に涙でぐちゃぐちゃになりながら、それでも離れない。
 場が困惑してきたそのとき、酷く冷めた声が響いてきた。
「ユキ、そのまま離すなよ」
 優はその声を知っていた。昨日道を尋ねたから。その声はとても親切に道を指し示してくれた。
 沖がはっと声のほうを振り返る。その先にいる人物は、声同様に冷たい顔をしていた。
 思わず、この人だっただろうかと優は自分の記憶を疑った。もっと優しそうな顔をしていた気がする。そう、温かい笑みを浮かべていたはずだ。
 高嶺神社の宮司は――。
「バカが」
 苦々しげに言い放ってくる。
 黒い衣服に身を包んだ宮司は、和服の時とはかなり雰囲気が違った。むしろ、まったくの別人と言えた。
「マツイチ……」
 沖が呆然と呟く。
 松壱は鬼のほうを一瞥し、それからすたすたと沖の傍まで歩んだ。その横に倒れている少女を見下ろす。
 陽光を弾きやすいブラウンの瞳。明るいその双眸に見つめられて優は息を呑んだ。
 足に仔狐をくっつけたままの沖を無視して、松壱は膝をつくと少女の手を取り、起きるのを助けて壁に寄りかからせた。
「大丈夫ですか?」
 そして、優の記憶にある柔らかい笑みを見せた。陽だまりのような、ふわりと温かい笑み。
 うぇっと背後で沖が呻いたが、ともかく、優はその笑顔にほっとして頷いた。
「はい」