肩こりの少女 3

「おーきーさーまっ!」
「うあっ」
 背後から飛びつかれ、沖はバランスを崩しながらも振り返って、声の主を見下ろした。
「ユキ?」
 名を呼ばれて、銀髪の少女が相好を崩す。服は淡い桃色のワンピースをまとっている。
「はい、沖様。ユキが来たからもう大丈夫ですよ」
「ははは……」
 やる気に溢れたユキに、沖は苦笑を浮かべた。
(今回は一人のほうがやりやすいんだけどなあ)
 少女を連れたままでは自由に動き回れない。経験から言えば、むしろ通りすがりの人々に不審な視線をいただくはめになる。昨今では犯罪が起きないことのほうが珍しいらしい。
 そんな沖の心境は分かっていないのか、見つめられてユキが照れ笑いを返してくる。
(ま、いつものことか)
 なんとなく悟った思いで、沖は暗い夜空を仰いだ。
 二人が今いるのは小さな公園である。闇夜に浮かぶ遊具は誰も使っていない。酔っ払いがブランコに座っていることを除けば、だが。
 羽山優の家は分かった。この公園のすぐ近くの団地。そこに踏み込む直前、鬼は霊体と化した。あの小鬼同様、人間には不可視の状態で取り憑いているのだろう。
 あとはいつ仕掛けるか、である。大鬼に正面から挑む気はない。できれば鬼のいない間に優に結界を張れるといい。結界さえ機能すれば、鬼はもう彼女に手出しできなくなるのだ。
(もちろん、それだけでは終わらないだろうけど)
「沖様、今日は帰らないんですか?」
 思考を遮る高い声に、沖は逡巡して近くのベンチに腰を下ろした。ユキもそれに倣って腰掛ける。
「帰らないつもりだよ」
 答えると、ユキはうつむいて足をぷらぷらと揺らした。沖は眉尻を下げて続ける。
「夕飯、食べてないんだろ。帰ればマツイチが用意してくれるよ」
「別にお腹が空いてるわけじゃないです……」
 小さく呟く。背後の電灯に照らされて、少女の銀髪がきらきらと輝いている。
「それに帰るなら沖様も一緒じゃなきゃ嫌です。……高嶺にも怒られるです」
 沖は目を瞬いて首を傾げた。
「怒るかな」
「怒りますよ。高嶺は……」
 そうかなーと沖はベンチの背もたれに寄りかかる。ユキはベンチの上で膝を抱えた。
(怒りますよ。高嶺は……沖様が心配だから。ユキだけで帰ったら怒る)
 松壱が沖に面と向かって心配だと言ったことは一度たりともない。沖以外に言うときも、今日のように皮肉を交えて冗談めかす。
 新緑の瞳を動かし、横に座る狐の青年を見やる。
 考え事をしているのだろう、わずかに伏せられた睫毛は長く、瞳に影を落としている。闇色の髪はしっとりと絹のようだ。そして湖面に浮かぶ青い月の瞳。
(沖様、綺麗だもんね)
 和服以外ではゆったりとした服を好む沖だが、その布の描く緩やかなラインと袖から覗く白い手はどこか儚げで、大丈夫だと分かっていても見守らずにはいられない。
 松壱だってそうであるはずだ、ユキは勝手にそう思い込んでいた。沖を放っておける者などいない、と。
 ユキはうつむいて自分の足を見つめた。白い靴を履いた足。靴は足が痛くなるから本当は好きじゃないのだが、人間に混じるためには仕方ない。
「じゃあ、できるだけ早く済むようにしようか」
 沖が呟いて、ユキは顔を上げた。彼はこちらを見て笑った。
「俺も長期戦はごめんだし。あんまり神社を空けると、それこそマツイチ怒るから」
 そう言ってから、なぜかよしよしとユキの頭を撫でる。
 まるっきり子ども扱いだったが、実際子どもなのだから仕方ない。ユキはならばとことん子どもして甘えようと決めていた。
 そしていつもどおり沖の懐に入り込んで、頬を摺り寄せる。暖かい陽だまりの匂い。
「お父さんになったみたいだ」
 微笑の混じった声が心地よく耳に届く。彼はいつもこう言う。
 沖は家族というものに憧れているのだ。
 そのことを改めて噛み締めながら、腕の中、ユキは静かに目を閉じた。家族の温かさを望む気持ちは自分も良く知っているから。

 下から吹き上げて来る風は不穏。
 もちろん、いつもこうだと言うわけではない。
 早朝、松壱は鳥居の下から石段を見下ろした。今日は和服ではなく、黒いハイネックのトレーナーに、同じく黒のジーンズを穿いている。
(大鬼、まさか沖が負けるとは思わない。だが)
 不安要素とは決してゼロになるものではない。百パーセントの安全など存在しようはずもないのだ。『偶然』の存在するこの世界では。
 特にこんな風の吹く日は、必要以上に心がざわつく。何かある、と。
 長い石段を見下ろしながら、松壱はしばらく思考を巡らせた。

「学校に行くみたいですね」
 公園から向かいの歩道を見ながら、ユキが優の姿を視認する。
「本当だ。大鬼が憑いてる」
 制服の少女の背中に、寄り添うように黒い影。目を凝らせば異形であることが知れる。
「ああ。でもいつでも憑いているわけじゃない。実際、奴は神社には来なかった。それは神域に入れないと言うのもあるけど、神社から戻った彼女にすぐに接触したわけじゃない」
 目を離す時間がないわけではないということだ。
 沖は遠くを歩く少女を見つめた。小鬼の分だけでも負担が減ったおかげか、昨日よりも顔色がいい。
(だがいつまで持つか……)
 鬼をじっと見据える沖を見上げて、ユキは不安げに首を傾げた。
「沖様……?」
 沖は動かなかった。青い瞳が静かに陽光を弾いている。
 やがて彼はぽつりと漏らした。
「牽制する」
 え、とユキが小さく声を漏らすと同時、沖の足元で風が巻いた。彼の視線に妖力が絡む。
 大気が震えた。
 それは突風そのものだった。音はなく、ただ真っ直ぐに鬼を貫く。
 一瞬ののち、金の視線が返された。
 鋭い針。それが沖の風の合間を抜けて飛んでくる。
 微動だに出来ないユキを、沖の腕がかばった。長くはなく、視線は逸らされ、やがて鬼の気配も遠のいていく。
 狐め、そう吐き捨てる声が聞こえた気がした。
「……っ沖様!」
 少女の姿が見えなくなってから、ユキが悲鳴にも似た声を上げる。白いパーカーの袖の片方がばっさりと裂けていた。
「大丈夫、体には当たらなかった」
 答えながら、沖は破けた部分をそっと指で撫でた。静かに生地が繋がっていく。
「沖様、何であんなことをするんですかっ。完全に敵視されちゃいましたよ!?」
 信じられないと喚く少女に、沖は笑って見せた。
「だって、そのほうが早いだろ」
 元に戻った袖を確かめながら続ける。
「結界を張ってから奴を追い払うつもりだったけど、やめた。奴がいなくなるのを待つより、こちらから仕掛けたほうがずっと早い」
 ユキは両手をわななかせて、沖を見上げた。
「でも、これで相手はいつでも警戒態勢ですよ? 不意をつけば無傷でだって倒せたかもしれないのに」
「そうだけどさあ」
「もう! 沖様は無鉄砲なんですよ! あの女子高生さんだって巻き込んじゃうかもしれないですよ?!」
「ああ、それは全力で守るから、っい…っ…!」
 少女に足の甲を踏み抜かれ、沖が語尾を呻きに変える。それだけではすまさず、ユキはバランスを崩した沖に体当たりした。あっけなく沖は地面にひっくり返る。
「……いって……あ……ゆ、ユキ?」
 痛みに顔を歪ませながらも、自分の腹の上に乗った仔狐を見やる。
 ユキは潤んだ目でこちらを見ていた。唇を震わせる。
「……全力で守る、なんて……言わないでください」
「ユキ……」
「半分は自分を守るために使ってください」
 言葉遊びだ。
 そう頭を過ぎるが、ユキは本気で言っているのだろう。沖は上半身を起こして、ユキの頬を撫でた。
 緑色の瞳がじっとこちらを見つめている。
「どきませんよ。……ユキは重石ですから」
 ぽつりと漏らされた言葉。
 一瞬目を見開き、それから歪んだ笑みを浮かべる。沖はそう言った自分を思い出した。
「……そうだったな」
 頷く青年に、ユキはぎゅっとしがみついた。
「……沖様……」
「ああ、分かってる」
 答えて、沖はユキの体に腕を回すと、そのまま抱き上げて立ち上がった。
 朝のまだ冷たい風が二人の髪を撫でる。
「行こうか」
 沖が優の去っていった方を見やる。遠くに体育館の緑色の屋根が見えている。彼女の通う学校だ。
 青年の服をきつく握り締めて、ユキは小さく頷いた。

 黒板に羅列された癖のある字、読みにくいそれをノートに写し取っていた優は、ふと手を止めた。窓のほうを見やる。
(なんだろう)
 つい先ほどまでなんともなかったのに、急に動悸が激しくなってくる。
 外は晴れていて、初秋の高くなり始めた空は果てもなく美しい。遠くの揺草山も今日ははっきりと見えていた。紅葉にはまだ時間がかかるだろう緑の山。
 日差しにはまだ夏の名残があった。暑くなったのか、窓際の男子生徒が手を伸ばして窓を開ける。
「……!」
 思わず、優は立ち上がった。
 急に起立した女子生徒に、教卓の教師が目を見開く。周りの生徒たちもざわめいた。だが、そんなことは気にならなかった。
 頬を撫でた生ぬるい風に、優は体が震えていた。
「……優? 具合悪いの? 真っ青よ」
 後ろから友人が小声で問いかけてくる。その顔色の悪さに教師も気づいたらしい。
「大丈夫か、羽山。保健室に行くか?」
 喋ることも仕事である教師の声は、友人のそれよりも大きく、優ははっとして顔を上げた。逡巡する。
「はい、ちょっとおなかが痛くなって。行ってきます」
「うん、一人で大丈夫か?」
 ありがちな嘘も信用されるほど、自分の顔色は悪いらしい。
「はい、大丈夫です」
 答えて、優は静かに教室から出た。
 扉を閉めたあとも続くざわめきと、それを静める声が聞こえる。だが、優は気にせず駆け出していた。
 なぜ自分が走るのかは分からない。でも行かなければいけない。
 これは自分が原因だから。