――忘れてはいけない。
* * *
一年中絶えず、新緑の芽吹く森、シヤン。聖なるこの森に、一人の少女が来ていた。シヤンを守る一族シヤニィの巫女である。
透き通るような輝きを持つ緑髪が風になびく。背はすらりと伸びて、女性としては長身なほうだろう。
彼女は森の最奥にある泉を目指していた。
泉でははるか昔、旅に疲れ、足に死を引きずった青年が喉を潤し、一命を取り留めたという。
その青年こそがシヤニィの始祖である。
以来、彼の子孫一族はこの地に永住し、泉を神泉と崇(あが)めて暮らしてきた。
巫女である少女の務めは、毎日その神泉に祈りをささげる事である。
今日もまた、十五分程度のその日課を果たすつもりでいた。
しかし、「それ」を目にして、彼女は深い蒼の瞳を大きく見開いた。思わず驚愕の声がもれる。
続けて彼女は、彼女たちの神の名を呟いた。
「……シャナラー……」
彼女の視線の先、泉の側には一人の青年が倒れていた。
* * *
父親は世界最強と謳(うた)われた魔法剣士。存在そのものが伝説であった。
――なのに。
なぜ、自分にはその力が受け継がれていないのだ。
小さな火種を得る事も出来ない。か弱いそよ風を導く事も出来ない。
何も出来ない。
自分は「伝説の息子」としてあまりにも、落ちこぼれだった。
強くなりたい。
涙が頬を伝う感触でシグマの意識は、現実へと呼び戻された。
しかし、その涙を拭う手の感触。それは涙と違い、自分以外の誰かのもの――。
シグマは驚き、飛び上がる勢いで跳ね起きた。
「……だれだ!?」
まず、はじめに視界に飛び込んできたのは緑の髪、そして驚きの色を浮かべた蒼の瞳だった。
それをみとめ、シグマは声を荒げた事を後悔した。
目の前にはただの少女が座っているだけ。盗賊でも魔獣でもなんでもなかった。
ただ、少女はシグマには見慣れない衣服を身にまとっていた。ボタンのない、前を合わせた白い上着。青くて、ひだの多いスカートのようなもの。
「あ、あぁ……、あんた……じゃない君、誰? ここは?」
質素で四角い部屋を見回しながら、シグマが少女に問いを投げ掛ける。
少女はしばらくその蒼い瞳を瞬(しばた)いていたが、やがてにっこりと笑った。
花々の綻ぶような優しいその笑みに、シグマの胸は今までにない高鳴りを覚えた。
「元気なようね。良かった」
涼やかな声が耳を打つ。
「あなた、神泉――あの森の泉ね、その横で倒れていたのよ。驚いたわ、だって……」
少し興奮した様子で喋り出した少女は、しかし、はっと口を噤(つぐ)んだ。
シグマが訝しげに片眉を寄せる。だがその理由はすぐにあたりが付いた。
(あぁ……、よそ者を警戒しているのか……)
「それで、あなたの名前は?」
少女が努めて自然に会話を続ける。
「シグマ」
別にやましいことをした覚えもないので、シグマはあっさりと即答した。
「……シグマ」
少女が青年の名を反芻する。
「シグマ、あなたはあの森で何をしていたの? ……場合によっては、私はあなたを裁くわ」
「裁くだって!?」
思わずシグマが素っ頓狂な声を上げる。
「な、何だって……。あんな森に何があるというんだ」
シグマの記憶では豊かに木々が茂っているわりには明るいというだけの森である。非常に美しいとは思ったが、特にほかの森とは違わないように思えた。
しかし、少女はいたって真剣な面持ちをしている。
「あそこは私たちの神、シャナラーの住む森。森は神殿も同然。あなたは神域を侵したのよ、シグマ」
少女は静かに、しかし威圧感のある言葉を並べた。蒼い瞳は任務を負うものの強い意志が窺えて、先ほど垣間見せた優しい光は今は失せている。
その様子にシグマはわずかに失望しながら、深くため息を吐いた。
「何もしてない。道に迷って歩いているうちにあそこに着いたんだ」
上目遣いに少女を見上げて続ける。
「君は……、何? 君だってその禁域とやらにいたんだろ?」
少女は濃い緑の長い睫毛をわずかに伏せた。
「私はサッシャ。……サッシャとは巫女のこと。私はシャナラーの声を聞き、それを遂行する者……」
まったくの異文化の話にシグマは息を呑んだ。
「巫女って、……修道女みたいなもの?」
「少し違うけど、大雑把に言えば似ているわね」
それを聞いてシグマは今度こそがっくりと肩を落とした。
(じゃぁ、この子は一生独身……なのか)
彼女の花の笑みが忘れられそうもないのに。
「本当に何もしてないのね?」
落ち込むシグマには気がつかず、サッシャは念を押すように尋ねた。
「あぁ。……水を飲んだけど……」
神泉の水を飲んだなど、言うべきではなかったのかもしれない。巫女が目を大きくするのを見て、シグマは思わず腰の剣に手をやった。
いや、正確に言えば剣がそこにある「はず」で、実際には何もなかった。
シグマは数瞬、戸惑ったが、じっとサッシャを見据え、その口が音を発するのを油断なく待った。
「それは構わないわ」
サッシャはむしろ明るい口調で答えた。
「森を汚しさえしなければいいのよ。禁域とは汚す者にとってであって、救いを必要とする者にはシヤンは常に開かれているの」
シグマはいまいち意味がわからず、目を瞬いた。
「そう、あなたは汚す人ではないのね。いいわ、歓迎しましょう」
そう言ってサッシャは立ち上がると部屋から出て行った。